善行は本来、人に見られていないところで密かに積むべきなのでしょう。宗教関係の本にも決まって、
「人前でこれみよがしに良い事をしようとするな」
といったことが書いてあるものですし。
「笠地蔵」のおじいさんにしても、お地蔵様に笠をかぶせてあげたのは、誰も見ていない場所においてでした。誰が見ていなくとも神仏は見ていますよ、というところがポイントなのであり、おじいさんの家にはその夜、お地蔵様たちによってどっさりと食べ物などが届くことになります。
とはいえ善行が必要とされるのは、人のいない場所だけとは限りません。席を譲るといった行為の時は、明らかに周囲に人目があるのですから。
親切に不慣れな日本人
さほど多くはない海外経験から考えてみるならば、日本人というのはなかなかに善行下手な国民ではないかという気がします。韓国や中国では、当たり前のようにお年寄りが大切にされていました。欧米でも、ベビーカーのお母さんや車椅子の人など、困っている人に、周囲の人が自然に手を貸していた。
前者は、「年長者を大切に」という儒教の精神がそうさせるのかもしれません。そして後者は、キリスト教的精神によって手助けをするのか。かつて欧米列強の人々は、「キリスト教、あなたも信じませんか!」と他国へグイグイ布教をしていましたが、気軽に他者の手助けをする感覚の源には、「他人のためになることは躊躇(ちゅうちょ)なくしてあげる」という同じ精神があるのかも。
そういえばかつて、アメリカでバスに乗り遅れそうになったことがあります。スーツケースを引いて「ちょっと待って!」と、必死の形相で走っていたところ、そのバスに乗っていたお兄さんが運転手さんに言ってバスを止めてくれたばかりか、バスからひらりと降りて、私のスーツケースをバスに乗っけてくれたではありませんか。それはまさに「地獄で仏」だったのであり、そのお兄さんのことが好きになりそうになりましたっけ。
そんな時、お兄さんのことが簡単に好きになりそうになってしまうのは、「その手の親切が、日本では滅多に見られない」から。アカの他人に何気なく親切にするという行為が我々は苦手であり、日本女性は「見知らぬ男性から親切にされる」ことに慣れていないのです。
とはいえここで、
「なぜ日本の男性は、ベビーカーが難儀していても、お年寄りが重い荷物を持っていても、手伝おうとしないのか。情けない!」
と、日本の益荒男(ますらお)達を糾弾するつもりは全くありません。「他人に優しくできない」のは、男も女も一緒。自分の知り合いに対しては親切にできても、そうでない人との間の壁を破ることは、日本人であれば男女共に苦手なのではないか。