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「腹立たしげに断られたら」「善人ぶってると思われたら」日本人が“人前での親切”という羞恥プレイに不慣れな理由

『無恥の恥』より#2

2022/07/08

source : 文春文庫

genre : ライフ, ライフスタイル, 娯楽, 芸能, 読書, 社会

note

 我々は、心根が優しくないからその手のことが苦手なわけではないのだと思います。アメリカでは、セレブがチャリティーパーティーなどをして莫大なお金を集めると言いますが、その手の行為が盛んではないのも、日本人が他人のためにお金を使うことを嫌う守銭奴(しゅせんど)だからではありますまい。

 我々がなぜ、自然に善行ができないのかといえば、ひとえに「恥ずかしい」からではないかと私は思います。人様のためになりたい気持ちは、ある。けれど、見知らぬ他人に一声かけたり、人前に出たりするのが恥ずかしくて、行動に踏み出すことができない。それはあの日空港で、紙片を落としたことを紳士に伝えなかった私の行動にも通じるのではないかと、言い訳がましく考えてみたりして。

「いい人ぶっている」と周囲から思われるのが嫌、という思いもありましょう。阪神・淡路大震災、そして東日本大震災といった大きな災害は、親切下手な日本人の心を少し変え、多くの人が「困っている人達のために何かをしたい」という意識を持ったわけですが、そんな時にも、たとえば炊き出しなどをする芸能人に対して、「偽善」といった言葉がネット上で投げかけられたりしたもの。

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 大災害が発生した時、日本中が一種の善行ハイ状態になることは、確かです。

「炊き出しをしましょうか」

「私は慰問の演奏を」

「花を植えに行きます」

 と日本中からやってくるハイな人々を迎えて下さる被災地の人々もまた大変だったのではないか、とも思う。

 震災時、毎週のようにボランティア活動に出かける知人がいましたが、

「少しは被災地のためにもなるし、地元の方には感謝されるし、やりがいがありすぎてやめられない。誰か私を止めて」

 と、アドレナリンを噴出させていたものでしたっけ。

 他人が良いことをしているのを見ると、していない人の心には、さざなみが立ちます。善行に励んでいる人達は、ハイになっているので生き生きとしているし、「良いことをしている」という自信にも溢れている。その眩しいような存在感に対して、そうでない人は「あの人に比べて自分は」という劣等感が募り、それが憎しみのような感情に変わるのではないか。

杉良太郎の必要性

 そういえば私は性格が今ひとつよろしくない、というか端的に言うなら「悪い」ことが悩みなのですが、そんな私の周囲にいるのは善人だらけなのです。それというのも根っからの良い人というのは、他人の悪い部分に気がつかない、もしくは気づいても気づいていない顔ができるため、私のような者とも平気で付き合ってくれるから。

 それは大変に有難いことではあるのですが、私は根っからの善人と一緒にいると、いたたまれなくなることが、しばしばあるのでした。彼らの真っ白な善人ぶりに照射されると、自分の黒々とした部分があからさまになります。古語における「恥づかし」とは、相手が立派すぎて自分という存在が恥ずかしくなる、といった意味を持つわけですが、それに近い意味で、自分が恥ずかしくなってしまう。