拙宅山本家も受験シーズンを迎えまして、子どもが「分からない」という算数を教える機会が増えてきたんですよ。

 子どもの考えや感情に寄り添える家内は、一生懸命子どものぐるぐるする思考に寄り添って、分からなければ分からないだけ頑張って教えてくれています。うちの嫁、なんて偉いんだ……。

えっ、何でこれが分からないの

 実のところ、私は団塊ジュニア世代、いまの我が子の世代よりもはるかに大量にいる子どもたちの中で受験戦争に揉まれてきました。幸いにして私は勉強ができたほうで、中でも算数は得意中の得意。

ADVERTISEMENT

 毎週行われていた四谷大塚(当時)のテストでも、テキストの予習を小一時間眺めればできてしまうので、子どものころの私は勉強で苦労したことがありません。算数が得意だったのも、いちいち勉強しなくても出る問題は読めば解けるから勉強しなかったわけです。

 ところが、いざ愛する我が子が「ここ、分からないんだけど」と元気よく質問してくるとビックリします。

 えっ、何でこれが分からないの。

 往々にして、よくビジネスでやるような対応――いきなり聞くんじゃなくて、自分で少し解き方を考えてから、それでも分からなかったら聞いてきてってやつをやると、途端に我が子がしょんぼりしたような雰囲気になります。

 仕事と教育とは人との向き合い方が違う。

 いざ、子どもの受験を経験してみて、一番思い知らされたのは私のほうでした。

©iStock.com

何がどう分からないのか、分からない

 正直言いますと、部下であれ子どもであれ、彼らが抱える大きな悩みである「分からない」のが、何が分からないのか、どう分からないのか、いかにして教えたら分かるようになるのか、こちらが「分からない」のです。

 要領を得ない部下や取引先が分からないことについては、参考資料を送ったり、問題整理のためのかいつまんだメモを渡し、それでも分からないぞということであれば、「分からないのであれば仕方がないですね」でまずは流すことができます。簡単だ。

 ところが、我が子の受験は違います。なぬ、植木算が分からない。え、どうして分からないの。分かるまで考えてごらん、では駄目で、分かるためにかかる時間が長ければ長いほど他の教科を勉強する時間が失われていきます。国語算数理科社会英語のうち、理科社会英語はひたすら根性で覚える教科です。週テストを受けて良い点を取るには集中できる環境で何時間記憶できたかですべてが決まることになり、記憶教科で稼ぐには勉強時間のロスは許されません。