いわゆる「学」はないけれど、数学的な地頭の良さをビジネスで発揮して、地方経済で謙虚に揉まれながら大成功しているのを見ると、こういう人たちこそ生涯学習で通信制でいいから大学に入学したらどうかとすすめたりもします。
組織の「文系」上層部がくだす、不合理な意志決定の弊害
裏を返せば、いまの日本のアカン部分というのはこの辺の不合理な意志決定をしてしまう「文系」が組織の上の方にいて、ビジネスで使う効率的で合理的な決定をするための数学的素養のない人が人柄の良さや派閥政治をうまく乗り切ってのし上がってきたからこそ、意味の分からない忖度や配慮が渦巻く淀(よど)んだ社会になってしまっているのではないか、と思います。
そして、かなりの部分がこういう数学的素養というのは教えて得られる、時間をかけて学べばできるものではないのだ、ということもまた、日本の教育的な美学である「人間、頑張れば何でもできる」という理想と隔絶した現実を指し示します。
いまでこそ、我が国も学術論文数の低迷や、理科系博士号取得者の数が他国に比べて少なく劣っている問題は叫ばれるようになりましたが、このあたりの評価基準をもっと最適化させていかないといまの若い世代は大変なことになってしまうのではないかなあと懸念せざるを得ません。
他方、数学ができない子でも、その資質・能力をうまく花開かせ、社会を生き抜く学識・技術を身に着けてどうやって幸福な暮らしを実現していくのか考えていかなければなりません。その多くは、やはり自分のできることはしっかりと自分でやり、自分の武器を継続的に磨きながらも、分からないことは専門性のある周りの人の意見をきちんと聞き、間違っていることを認識できたら躊躇なくそれを正すのが社会人として必要な能力なんじゃないかと思います。
単に「理系万歳」という話ではなく、人として、社会として、どういう教育をしなければならないのかを考えるという機能をもう一回見直すべきだと思うのですが。