繰り返される施設内での死
名古屋入管でスリランカ人女性が死亡——。その第一報を知ったのは、知人の弁護士のSNSの投稿だった。「またなのか……」と、その日はずっしりと重たい何かにのしかかられたような思いで1日を過ごした。
入管での死亡事案はこれまでも相次いでいた。2007年以降、収容施設内で亡くなるのはこれで17人目だった。うち5人は、自ら命を絶っている。
ニュースで伝えられた彼女は一体、なぜ、命を奪われなければならなかったのだろうか。そもそもその「なぜ」を入管側はどこまで開示するだろうか。これまでの死亡事案でも、担当者や責任者が刑事責任を問われたことはない。国が管理する施設で人が亡くなるという重大事案でありながら、検証さえ、まっとうに行われてこなかった。
今回もそんな入管側の姿勢を上塗りするかのように、ウィシュマさんの死から4日後の3月10日の中日新聞には「適切に対応していた」という入管側のコメントが掲載されていた。死因も背景も全く明らかにされていない状況でも、入管側の「結論」だけは堂々と先出しされていたのだ。
支援者や入管問題に携わる弁護士たちから、次々と抗議の声があがる一方で、SNSの一部やウィシュマさんのニュースが転載されたYahoo!ニュースのコメント欄は地獄と化していった。
「在留資格がない方が悪い」「帰らなかったからだろ、自業自得」——。在留資格を失うことがまるで「重大犯罪」のように扱われ、その資格の喪失が人権の喪失であるかのような言説が、後から後から連なっていった。どうかこのコメントが遺族の目に触れないようにと、暗澹たる思いで願うしかなかった。
「収容」とは本来どんな措置なのか
そもそも、「収容」とは、どんな措置なのだろうか。「仕事を失ってしまった」「困難を抱えて学校に通えなくなってしまった」「パートナーと離婚した」——それは生活していれば誰にでも起こりうる生活の変化のはずだ。けれどもこの「変化」によって、日本国籍以外の人々は、日本に暮らすための在留資格を失ってしまうことがある。
在留資格の有無は、時に「紙一重」の違いであることから、米国のバイデン政権はそうした人々に、「illegal alien(不法在留外国人)」などの呼称ではなく、「undocumented(必要な書類を持たない)」といった言葉を使う方針を示したが、日本の入管庁は相変わらず「不法滞在者」という言葉を使い続けている。
「収容」とは本来、在留資格を失うなどの理由で、退去強制令を受けた外国人が、国籍国に送還されるまでの「準備」として設けられた措置のはずだった。
人を施設に収容するということは、身体を拘束し、その自由を奪うことであり、より慎重な判断が求められるべき措置のはずだ。
ところが実態を見てみると、収容や解放の判断に司法の介在がなく、入管側の一存で、それも不透明な意思決定によって決められていく。しかも、収容期間は事実上無期限だ。