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窓口では日本語でしかアナウンスしない傲慢さも……

 名古屋入管のロビーで待機していた間、私はどうしても、そこが多様なルーツの人々が集まる施設であるという感覚を持てずにいた。

 入管入り口の傘立ての横に、丁寧にビニール傘を横たえて中に入ろうとした男性へ、「傘は立ててください」と職員が日本語で声をかける。おそらく日本語話者ではないのだろう。きょとんとしている男性に、職員が指をさしながら、「そこ、立てて」と、再度日本語で話しかけ、男性は戸惑った表情のまま、傘立てに後戻りした。

 ここを訪れる人々の顔ぶれは様々だ。しかし、1階ロビーに流れる「●番の方、窓口まで来てください」というアナウンスも、2階の申請窓口に響く機械音声の案内も、フロアの椅子に腰かけて待つ人々に呼びかける職員の言葉も、すべて日本語だったのだ。私の傍(かたわら)で、やはりずっと日本語で職員から説明を受けていた男性は、その言葉がうまく理解できないのか、曖昧な応答に終始していた。

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写真はイメージです ©iStock.com

 気になった私は後日、名古屋入管にこのことを問い合わせてみた。総務課の窓口からは「日本語、英語でアナウンスをしている」という返答だった。システムが変わったということだろうか? この点を尋ねても「いえ、ずっとこの仕組みです」と言い切るので、私の記憶違いだったのかもしれないと思ったほどだ。

 その後、私は再度、名古屋入管を訪れてみた。2階の申請窓口の機械音声も、1階ロビーに流れるアナウンスも、やはり日本語のままだった。それも、1階ロビーのアナウンスは音割れしており、日本語が母語である私にも聞き取りづらいものだった。

 たかが言葉、だろうか。言葉は意志を伝える役割を果たすこともあれば、かつての日本の植民地政策が表しているように、支配の道具として使われることもある。「日本に来たからには日本語を理解しろ」という傲慢さが、そこにある気がしてならない。まして、衰弱し、命の危機を感じている最中に、自身の言葉を解そうとしない職員たちに囲まれ過ごさなければならなかったウィシュマさんは、どれほどの恐怖と無念にさいなまれていただろう。

 ウィシュマさんの事件が発覚してから、いやそれ以前から、入管庁の「不都合を隠そう」という態度は一貫してきた。その一端に触れるにつれ、「いつものこと」と不誠実な態度に驚かなくなってしまっていた自分にはたと気づく。虚偽の説明は何があっても許容できない。それがまかり通る組織に、人命を守ることは不可能だろう。