近年、日本の難民認定率は1%にも満たない。ロシアの軍事侵攻によってウクライナから避難してきた人々に対しては、入国要件を緩和しているが、ウクライナ侵攻以前の日本政府は、戦争・紛争から逃れてきた人々や外国人に対して“冷淡”だったのだ——。

 ここでは、日本政府の外国人政策の闇を暴いた『外国人差別の現場』(朝日新聞出版)から一部を抜粋。病死・餓死・自殺が相次ぐ入管での過酷な実態を徹底取材した、フォトジャーナリスト・安田菜津紀氏のルポタージュを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

写真はイメージです ©iStock.com

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来日したスリランカ女性が亡くなった理由

 季節は初夏にさしかかってはいるものの、この日の名古屋は朝から冷たい雨に見舞われていた。2021年5月17日、絶えず窓をつたう雨粒を横目に、私は名古屋出入国在留管理局(以下、名古屋入管)の1階ロビーのソファで、ウィシュマ・サンダマリさんのご遺族や代理人が、局長らとの面会を終えるのを待っていた。

 2020年8月に収容されたウィシュマさんは、その後、体調を崩し、自力では起き上がれないほど衰弱しながらも、入院や点滴などの措置は受けられず、21年3月6日に帰らぬ人となった。亡くなった時の体重は、収容当時と比べて20キロ以上落ちていたという。

 この日、前日にウィシュマさんの葬儀を終えた遺族は、収容施設内の視察や、ウィシュマさんの居室の監視カメラ映像の開示を直訴しに、数人の弁護士、国会議員と共に名古屋入管を訪れていた。

 ウィシュマさんは2017年6月、日本で英語教師になることを夢見てスリランカから来日し、千葉県成田市の日本語学校に通っていた。当初は熱心に出席していたものの、しだいに学校に通えなくなり、除籍となって在留資格を失ってしまうことになる。

 同居していた男性から追い出された、と静岡県内の交番に駆け込んだのは2020年8月のことだった。そこでオーバーステイが発覚する。

 その後、名古屋入管の施設に収容されたが、帰国できない理由として、その同居していた同じスリランカ出身のパートナー、B氏からのDVと、B氏から収容施設に届いた手紙に「帰国したら罰を与える」など、身体的な危害を加えることをほのめかす脅しがあったことを訴えていた。私が見せてもらった遺品のノートにも、〈今帰ることできません〉という、切迫した言葉が綴られていた。

 けれども彼女は最後まで、DV被害者として保護されることも、「仮放免」という形で施設の外に出ることも許されなかった。