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 水の都は、黒く汚れた。

 雨は県内各所で強く降り、爆心地から西に約2.8キロ離れた旭山神社では、大量に降り注いだ黒い雨が所在していた山の火災を消し止め、焼失を免れたという逸話も残る。その恐ろしさを知らず、「慈雨」と思って浴びた人もいただろう。

 その雨が人々の体を死ぬまで蝕むことになるとは、誰も知り得なかった。放射性物質の量が半分になるまでの期間を「半減期」といい、その期間は物質によって異なるが、広島原爆では長いもので30年以上ある。「草木も生えぬ75年」とささやかれ、広範に、しかも長期に影響を及ぼす放射線への恐怖が後に人々を襲った。

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 そして、呼吸などを通して取り込んだ放射性微粒子は、排出されるまで体内にとどまり、内部から細胞や組織を壊し続ける。

 日本で原発が積極的に導入された1970年代から反原発を唱えていた原子核物理学者の水戸巌(1986年に53歳で死去)は、当時から内部被ばくの危険性を訴えていた。妻の喜世子によると、生前、次のような言葉をたびたび口にしていた。

「外部被ばくは、機関銃を外から撃たれたようなもので、一過性。だが、内部被ばくは体の中に機関銃を抱えて、内部から絶えず弾丸を打ち出されているようなものだ」

放射性物質は70年経っても体内に残存する

 実際に、その「弾道」を捉えた研究がある。被爆者医療の第一人者で、広島大学原爆放射能医学研究所の所長を務めた同大名誉教授の鎌田七男らは2015年、29歳の時に黒い雨を浴びた女性の肺組織に残存するウランが、放射線を放出したことを示す痕跡の撮影に成功した。

 女性は爆心地の西約4.1キロで黒い雨が激しく降った広島市古田町に住み、約2週間、近くの畑で採れた野菜を食べたり、井戸の水を飲んだりして過ごした。82歳で肺がんと胃がん、84歳で大腸がんを発症。鎌田らの研究成果は、放射性物質という「機関銃」が戦後70年経っても体内に残存し、弾丸を放ち続けていたことの動かぬ証拠だった。