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突如、彼女を襲った「体の異変」

 1945年8月15日正午、昭和天皇自らが録音した「終戦の詔書」が放送され、国民は敗戦を知った。森園は、母親に「戦争が終わったんよ」と聞かされたが、実感を持って理解することはできなかった。「新型爆弾」の投下からまもない頃で、「また爆弾が落ちてきたらどうしよう」という恐怖が心に残っていた。

 一方で、体には異変が現れ始めていた。だるくて疲れやすく、下痢を繰り返すようになった。最初は「食べ物が悪かったんじゃろう」と軽く考えていたが、一向によくならない。見かねた父は、一里(約4キロ)も離れた病院へ何度も連れて行ってくれた。その道中でも疲れてしまい、家々で休ませてもらいながら通院した。そして肺炎を二度患い、学校もたびたび休んだ。布団に寝ていると外で遊ぶ子どもの声が聞こえてきて、寂しさで胸が張り裂けそうだった。

 また、3つ上の姉は、よく鼻血を出した。紙切れさえ貴重だった時代で、学校ではボロ切れをいつもポケットに忍ばせていた。そのことで同級生にいじめられ、よく泣いていた。

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 時は終戦からまもなくで、被ばくとは何たるか、人々は知る由もなかった。ただ、「ピカドンはうつる」「原爆におうたことは結婚に差し障る」とのうわさが、この山村にも広がった。爆心地周辺では嘔吐や脱毛、そして森園らも訴えた下痢や鼻血を繰り返し、その皮膚に紫斑を浮かべて急死する者が相次いでいた。火傷などの外傷がなくても、原因不明の病状を訴えて息を引き取る者も多く、「ピカの毒」ともささやかれた。

 爆心地から17キロ以上も離れていたとはいえ、「黒い雨」という特異な事象を体験した旧亀山村でも不安は広がり、他言させまいとする動きが出てきた。森園によると、集落で開かれた会合で「うちでは黒い雨は一切降っとらん、いいな」と、とりまとめ役が言ったという。この会合には森園の父も参加しており、家族に「黒い雨のことは言うちゃいけんことになった」と報告した。

 後に嫁いできた兄の嫁は被爆者だったが、両親は「この家を出たら、原爆のことは一切話しちゃいけん。ここでは、言わんようにしとるけえ」と言い聞かせた。

 白血病で父が亡くなった1957年から被爆者に対する医療の給付などが始まったが、兄の嫁はとうとう、森園の母が亡くなる1979年まで被爆者健康手帳を申請しなかった。原爆がいかにタブー視されていたか、うかがえる。

 被爆からまもない頃に村役場の職員が訪れて、「黒い雨については他言するな」と命じた、と証言する旧亀山村の住民もいる。いつ、どこで、誰が黒い雨を「降らなかった」ことにしようとしたか、戦後75年余が過ぎた今、詳細な確認を取るのは難しい。

 また、旧亀山村における黒い雨の記録は、公的な資料にも残されていない。

 1971年に広島市役所が刊行し、原爆の基礎資料とされている『広島原爆戦災誌』(全5巻)には、当時の可部町周辺の状況について、落下傘の記述はあるものの、黒い雨への言及は一切ない。それどころか、きのこ雲が「ダイダイ色―赤色―黒色を帯びた雲に変り、つぎつぎに奔騰した」との記述の後、「それから数時間、不安な時間がたったが、何にも起る様子がなかった」とまで書き添えられている(第4巻)。

 広島市教育委員会が発行した『あのとき閃光を見た 広島の空に』(1986年)でも、「原子爆弾投下後に広範囲に降った黒い雨は、可部地域には降らなかった」とされた。