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 だが、森園の体は、次々に襲いかかる病をもって黒い雨の被害を訴えるようだった。34歳、卵巣の癒着がひどく救急搬送され、摘出した。30代後半、幼い頃から悩んでいた喉の腫れについて、医師は「原爆に遭いましたか。これは被爆者の症状ですよ」と言った。

 肝臓が悪くて体はだるく、40歳以降は通院が欠かせない。52歳、甲状腺機能低下症と診断された。60歳、腸閉塞。治療は、口から大腸まで管を通さねばならず、苦しいものだった。血圧も高く、白内障も手術した。80歳を過ぎた今、七種の薬を毎日飲み続けている。

 それでも、森園は幼い日の父との約束を守って、その記憶に封をしてきた。数々の病と黒ずんだ雨が結びつき、口を開いたのはずっと、ずっと後だ。

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「死ぬべきものは死んだ」

 黒い雨を隠したのは、雨に打たれた人たちだけではない。原爆を投下した当事国、アメリカもまもなく動き始めた。

 原爆投下に関する報道は、敗戦を機に堰を切ったように始まる。1945年8月23日付の「毎日新聞」は「米国側においても『広島、長崎は今後七十年間は草木は勿論一切の生物は棲息不可能である』と怖るべき事実を放送してゐる」と伝え、ちまたでも「草木も生えぬ75年」との言葉が広がった。

 海外報道も、放射線障害の影響を思わせる事象を生々しく伝えた。9月2日、米艦ミズーリ号上での日本の降伏文書調印をもって連合国軍による占領が始まると、外国人記者らも来日して取材を始めた。9月5日付、英紙「デイリー・エクスプレス」には「原爆病」との見出しで、原爆が投下された30日後でも「原爆の疫病としか言いようのないものによって人が死んでいく」との記事を掲載した。また、米紙「ニューヨーク・タイムズ」も同日付で、「原子爆弾はいまだに日本人を日に100人の割合で殺している」と報じ、両紙とも、放射線による急性死亡と思われる事例を伝えていた。

 だが、翌9月6日を境に潮目が変わる。原爆開発の「マンハッタン計画」副責任者で准将のトーマス・ファーレルが東京で海外特派員向けの声明を発出した。

左から2番目の人物が放射能の存在を否定したファーレル氏 ©getty

『広島・長崎の原爆災害』(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)によると、発表は「広島・長崎では原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ」という内容だった。

 取材してきた実情と異なるとして記者らは反論したが、「広島に原子放射能があり得たということは不可能だ。爆弾は空中の高いところで爆発するように仕組まれてあつた。もし、いま現に死んでいるものがあるとすれば、それはそのときうけた被害(筆者注:火傷などの外傷)のため以外にない」と言い切ったという(W・G・バーチェット「忘れられぬ無言の抗議 私はヒロシマで何をみたか」、『世界』1954年8月号)。