「俺は働きすぎだ。この会社はおかしい、何かあったら訴えろ」
A子さん(50代女性)は、テレビを見ながら夫がぼそっと言っていた言葉を記憶している。
激務の中で、A子さんの夫は、自らの不調に気がついていた。
悪い予感は的中する。2011年3月の東日本大震災によって過重労働に拍車がかかり、A子さんの夫は、同年8月、自宅トイレで脳幹出血を起こして倒れたのち、そのまま救急車で運ばれ、翌日搬送先の病院で亡くなった。享年51だった。
1ヶ月あたりの残業は過労死ラインの80時間を超えていた
岩手県在住で夫を過労死で亡くしたA子さん。ある日突然、過労死遺族になった「普通」の人が過労死問題を争うときに直面する困難を見ていこう。
50代のA子さんは、岩手県で生まれ育った。夫とは30年前に知り合い、結婚。二人の子どもに恵まれた。結婚を機にパートになった自宅近くのスーパーで働きながら、家族4人で暮らしていた。
二人が知り合った際には、A子さんの夫はすでに今回問題となった企業、株式会社サンセイ(岩手県奥州市)で正社員として働いていた。機械部品の製造や加工を担うこの会社でA子さんの夫は当初現場で加工作業などに従事していたが、働き始めて10年ほど経つとそこに営業の仕事も加わった。
急な呼び出しによる休日出勤も日常的だった
A子さんの夫は過酷な勤務を強いられていた。日勤の場合は、毎朝7時に起床してコーヒーを飲むと7時20分頃に自家用車で出勤。その後、夜10時か遅いときには11時に帰宅。土日は休みになっていたが、納期に間に合わせるために一人で工場に出勤するなど多忙を極めていた。
亡くなる前は営業技術係係長として、見積もり作成から部下の査定などまで様々な業務に関わっていた。1ヶ月あたりの残業は過労死ラインの80時間を超えていたが(亡くなる直前1ヶ月間は85時間48分)、業務や労働時間の見直しが行われることはなく、また一時期は残業代すら払われていなかった。
A子さんによれば、急な呼び出しによる休日出勤も日常的におこなわれていたという。夫婦で花火を見にいく予定だった日に突然、社長の運転手をさせられて休日がつぶれたこともあった。休日でも製品の不良が一つでもあれば出勤せざるを得ず、あるいは、休日に宅配便の営業所に商品を持ち込んで発送作業を行うこともあった。
ただ当時はいまほど過労死についての報道も多くなく、身近な問題だという実感もなかったため、そこまで深刻には考えていなかった。また、会社を辞めたら辞めたで、これからどう生活すればいいのかという不安もあった。