有村架純は愛嬌のある、いわゆるたぬき顔のため、厳格なことを言っても緩和される。それでいて、甘えた感じにも見えない。つねに背筋をすっと伸ばしているので、そこに生真面目な印象がついてくる。
あまり露出しないが足も長く細く、歩き方がきれい。『石子と羽男』第3話でも赤楚衛二演じるバイトの大庭蒼生となにげなく歩いているときのふくらはぎから足首のラインは注目に値する。甘い顔と声を持っているが、身体に負荷をかける(姿勢やヒールの高い靴)緊張感が、視聴者にもなんとなく感覚として伝わってきて、この人物(役であり、俳優であり)が懸命に生きているんだなと思えるのだ。
決して断じない、有村架純のクレバーな面
たいていテレビドラマで反感を買うタイプは、役の良し悪しではなく、できる範囲でやっていて余裕を感じる人物である。余裕でやれそうなことでも、余裕のあるキャラを演じるときでも、どこかに負荷をかけることでどんな役をやっても真摯に感じるものだ。
長年、俳優の演技を見て、多くの演出家や監督の話を聞いてきた筆者が見つけた演技の真髄のようなもののひとつに、演じるという仕事を懸命に行うことがある。それが演技以上に大事なことなのだ。
例えば、有村架純が映画『僕だけがいない街』で共演した藤原竜也。どんなにクズの役をやっても、基本的には姿勢がいいし、全身全霊で叫んでいるから、役がクズでも応援したくなる。また、有村とドラマ『姉ちゃんの恋人』(カンテレ/フジテレビ系)で共演した林遣都もそうだ。中村倫也の場合、負荷をかけているように見せないところに負荷をかけているというトリッキーなタイプ。つまり、羽男のような人物なのではないだろうか。
ありのままの自分をむきだしに世間に提出して受け入れてくださいなんて土台無理な話であって、受け入れてほしいからこそ、すこしだけ譲歩したり努力したりする。その行為をお互い、黙って受け入れ合う。それが現代を生きていくことに必要なコミュニケーションである。
『石子と羽男』の石子と羽男には極めて現代的な問題が忍ばされているようにも見える。そっと見過ごしてほしい天才に見える計画を、石子にズケズケ言葉にして指摘されることは、羽男にとって厄介なことだが、それによってしだいに楽になっていく。
石子が有村架純で良かったと思うのは、相手にとって痛いことを見抜いたり、毒も吐いたりするけれど、決して断じないことである。他者に踏み込まないギリギリを有村は的確にキープしている。このクレバーな面こそ、彼女の魅力であり、生真面目さが好感度をあげる所以である。