虐待に関する書籍は九〇年代後半から数多く出版されているが、その価値は加害・被害の二分法からどれだけ自由であるかによって決まる。殺した親を「鬼畜」扱いし特殊化・周縁化すれば、ふつうの家族や親子の価値は保護され脅かされることはないからだ。厚木市幼児餓死事件などを扱った本書は、そんな予定調和的構造を裏切っていく。
加害者である親が子どもを殺そうと思っていたわけではないこと、出産直後には親子の絆やハッピーな家族像を夢見ていたことなどを丹念なインタビューから描き出す。さらに彼ら彼女たちの悲惨な生育歴を足を運んで聞き出すことで、著者は加害・被害の複層化に成功している。
あまりの悲惨さに驚かれるかもしれないが、本書で描かれた三つの事件は日本の児童虐待における氷山の一角に過ぎないことを知ってほしい。殺された子どもの背後には、表面化しないまま病死や事故死とされ闇に葬られた多くの被虐待児が存在するはずだ。幸運にも第三者に発見され、いくつかの偶然が重なって殺されることを免れて成長した子どもたちの数を加えれば、相似形の家族・親子は膨大な数にのぼるだろう。
「鬼畜」と呼ぶしかない親に育てられ、かろうじて生き延びて成長した人たちの語る言葉を、評者はカウンセラーとして二十年以上にわたり聞いてきた。戦場からの帰還兵同様に、単純に「殺されなくてよかったね」と言うことが憚られるほど、彼ら彼女たちはさまざまな後遺症や深い影響に中高年になるまで苦しめられる。それだけではない、親子の絆を称揚し、どんな親でもやっぱり血がつながっているから最後は許すべきだという日本社会に深く根を張った常識によって、そのひとたちはずっと苦しめられることになる。本書を読めば、親子愛という粉飾がどれほど家族を閉鎖的にし、結果的に子どもを殺すことにつながるかが手に取るようにわかる。
幸せを夢見ながら瞬く間に坂を転げ落ちるように破局に至る親たちの姿から、一九九〇年のバブル崩壊から二十五年を経た貧困化の進行が、このような脆くてあっけない、まるで底が抜けたような児童虐待を生み出したのではないかと思わされる。貧困は「言葉」の貧困を生み、理由や考えを語れない底辺層を厚くする。本書には著者のインタビューで初めて事件について考え言語化できたのではないかと思わせる親たちが登場するが、じっくり言語化を促し加害者を丹念に描き切ることにノンフィクションの意味を見るのは評者だけではないだろう。
いしいこうた/1977年、東京都生まれ。2005年、『物乞う仏陀』でデビュー。主な著作に『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『遺体』『津波の墓標』『浮浪児1945-』がある。また小説に『蛍の森』、責任編集『ノンフィクション新世紀』などがある。
のぶたさよこ/1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。最新刊『家族のゆくえは金しだい』が話題を呼ぶ。