松浦亜弥のものまね“エアあやや”と「言うよね~」のセリフで、2000年代にブレイクしたはるな愛(50)。
20年以上にわたってニューハーフのタレントとして活動してきた彼女に、すでにスターであった大阪での日々、鳴かず飛ばずだった上京後の苦労、戸籍上の名前“大西賢示”を変えない理由などについて、話を聞いた。 (全3回の3回目/1回目を読む)
◆ ◆ ◆
大人気だった大阪時代から、不遇の東京時代へ
ーー2008年に“エアあやや”と“言うよね~”で全国区の人気を得ましたが、すでに1990年代のなかばに大阪でブレイクされていたんですよね。そのきっかけとなったのが、『上岡龍太郎がズバリ!』(TBS、1992~1996年)だった。
はるな愛(以下、はるな) その上岡さんの番組でニューハーフを50人集める企画があって、私も呼んでいただいて。それがきっかけで番組のなかで、『玉なき子』という『家なき子』のパロディの主役をいただいたり、ロケにも出してもらったりしたんですよ。
ショーをやっていたニューハーフのお店も、私にとっては芸能界のステージのような場所だったんですけどね。芸能人として、それ以上のことをやらせてもらったなって。
ーー出演によって、一気に関西圏で人気が。
はるな 関西はニューハーフの文化がすごく進んでいたのもあったけど、特に関西で上岡さんを知らない人なんて誰もいなかったですしね。おかげで『上岡龍太郎がズバリ!』以外でも、日テレの特番とか全国ネットの番組に出させてもらったり、「ニューハーフの歌合戦」の企画がある番組に呼んでいただいたり。
そういったゴールデンの番組に呼ばれているなかで、関西テレビで上沼恵美子さんの番組が始まるからということでレギュラーに呼ばれて。
ーーその番組って。
はるな 『快傑えみちゃんねる』(関西テレビ、1995~2020年)です。最初のレギュラー・メンバーを務めさせてもらって。その時はなんにも喋れなくて、いっつも上沼さんのトークを目の前で聞いては「すごいな」って思ってましたね。でも、あの話術を間近で聞けたことって、いまでも大きいし、やっぱり勉強になっていたんだなぁって。
ーーそして、24歳の時に東京へ。
はるな 当時、飯島愛ちゃんと番組でたびたび一緒になったんですよ。それで楽屋で、同じ愛っていう名前なのもあって、いろいろ話しているうちに「芸能界に興味あるんだったら、うちの事務所に来ない?」と言ってもらって。それがきっかけで上京しました。
ーーそこから不遇の時代に入ってしまう。当時の事務所は、どういった路線で売り出そうとしていたのですか?
はるな 上京を機に女の子として芸能界でお仕事をしたかったんですけど、やっぱり女の子とは違う部分が大きくて。事務所も、“秘密を持っている彼女”みたいなコンセプトで、女の子として売り出そうと頑張ってくれたけど、まだまだ当時は難しかったです。