窪島 よく「絵がわかる」というでしょ。でも僕はそもそも「絵がわかる・わからない」というのがわからない。ただ、魅かれる絵がある。その絵を描いた人がどういう人で、どんな思いで、どんな生き方をしていたのかということに魅かれるんです。
だから例えば、1919年にスペイン風邪で22歳で死んだ村山槐多、同じく20歳で死んだ関根正二、脳腫瘍で30歳で死んだ野田英夫のように、思いを遺して早世した画家の絵には特に魅かれます。これは無言館にも通じます。志半ばで死んだ、無名の“画家未満”の若者の絵に強く魅かれるんです。
「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」
内田 窪島さんは、生まれた3週間後が真珠湾攻撃だったそうですね。よく「無言館は反戦や平和を訴えるために建てたのではない」と発言され、自伝的小説『流木記』には「画家には二つの命がある。一つはナマ身の命、もう一つは作品にこめられた命」と書かれています。
つまり作品がこの世からなくならない限り画家は死んでいない。だから、あまりにも若くして戦火に散った画学生たちの「もう一つの命」を守るために建てたのですね。
窪島 自らも東京美術学校(現・東京藝術大学)を繰り上げ卒業させられて召集され、戦地から復員された、現在101歳で現役の洋画家である野見山暁治さんが、「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」とぽつりとおっしゃったのを聞いたのがきっかけでした。
まもなく戦後50年を迎える頃のことで、今から収集して保管すれば、散逸を防ぐのにまだ間に合うんじゃないかと思いました。
内田 画学生たちの遺した絵の収集に、3年半かけて全国を行脚されました。