第二次世界大戦で没した画学生の遺作を展示する、長野県の戦没画学生慰霊美術館「無言館」。その館長の窪島誠一郎さんを描いたテレビドラマが、主演・浅野忠信さん、監督兼脚本・劇団ひとりさんで、8月27日に24時間テレビ(日テレ系)内で放映されます。窪島さんと内田也哉子さんとの対談を「週刊文春WOMAN2022年夏号」より全文公開します。(全2回の2回目。前編を読む)
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36歳の時にファンであり父である「水上先生」と対面
内田 お父様のことを「水上先生」と呼ばれるんですね。お父様ご本人に対してもそう呼んだのですか。
窪島 だって初めて会ったのは、僕が36歳のときですから。もう「お父さん」と呼べる歳ではなかったし、僕自身、代表作の『飢餓海峡』に登場する岬を見に北海道まで行くほど、昔からの水上ファンでしたからね。
内田 まさか自分の好きな作家が父親だとは。自分を育てたご両親が養父母だと知らず、でも13歳ぐらいのときに親と似ていないことや血液型が親子としてはおかしいことに気がついたんですよね。
そして実の父、母を探し始め、36歳のときに水上さんにたどり着いた。驚いたことに、お互いに世田谷の成城に住んでいたんですね。最初に父子が対面したときはどういう空気感だったんですか。
窪島 先生の軽井沢の別荘で2人きりでした。先生は当時58歳。僕を一目見て、自分の息子だとわかったそうです。自分の書いたもので何が好きかと聞かれ、僕は『飢餓海峡』や『越前竹人形』ではなく、『蓑笠の人』という、誰も読まないような短編を挙げた。これがまた泣かせてね。「あれを読んでいてくれたか」と。
内田 窪島さん、天性の人たらしですね(笑)。
窪島 うれしかったし、父親を大好きになったけど、もし、探し当てた父親が普通の市井の人だったらもっと生きやすかっただろうなと想像します。
父子が再会したことは、父親が有名人であったために大ニュースになったんですよ。1977年のことですが、父のスキャンダルとして報じるメディアもありました。父は戦時中に僕の母と同棲して僕を授かるのですが、生活苦から僕を手放し、僕は子どもがいない靴屋夫婦の実子として育てられたんです。