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内田 どういうことですか、無言館がまさしくそうだというのは。

窪島 戦争で亡くなった画学生が気の毒だからだとか、あるいは将来の若い人たちに平和な世界が訪れますようにとか、そんな世のため人のためにやった覚えはないんですよね。

 でも遺族を訪ねると、お寿司は取ってくれるわ、ビールの栓は抜いてくれるわ、大歓迎してくれるわけですよ。そうやってお借りしてきた大事な形見の絵を展示する美術館をつくったら、世間から「ご立派なことをなさって」と言われて、もう、うれしくてうれしくて。

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日高安典「裸婦」
昭和20年4月、フィリピン・ルソン島で戦死。享年27
鹿児島県種子島出身。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。独身で亡くなった安典が誰をモデルに描いたものなのか遺族にもわからなかったが、平成11年の終戦記念日に無言館を訪れた年配の女性が備え付けの感想ノートに日高にむけてしたためていた。「安典さん、今日ようやく、貴方が私を描いてくれた絵に会いにきました。(中略)あの夏は、今でも私の心のなかではあの夏のままなのです」。

「みるみる板垣退助(当時の100円札)が束になりました」

内田 そのご自身や現象を客観的にとらえる目には唸らされます。無言館は、水上勉さんの援助は一切受けずに建設し、運営されてきたんですね。

窪島 東京オリンピックのときに、マラソンコースの沿道でおにぎりを売って大変もうけましてね、そのおにぎりを握ったのが今の奥さんなんです。バーの開店、支店の拡大……みるみる板垣退助(当時の100円札)が束になりました。

内田 喜怒哀楽をもじった「キッド・アイラック・ホール」もつくって、そこはライブハウスの先駆けになったそうですね。

窪島 当時、僕はサラリーマンもやっていて渋谷の生地屋に勤めていたんだけれど、月給が5000円でした。一方、おにぎりの売り上げだけで一日2万円。子どものころから絵を描くことや文章を書くことが好きで、文学を目指そうとか、画家になりたいとか思っていたのに、お金が入ってきたら稼ぐことのほうがおもしろくなってしまった。

内田 自分のストイックなものに対する情熱がお金の残酷さでパワーを失ったと思われますか。