「有名作家と再会した奇跡の子」「一流女優の娘」という葛藤
僕が実の親を探し歩いた日々のことは、その後、NHKの連続ドラマにまでなったから、世間の僕を見る目は違ってきました。どんなに夭折した画家の発掘に努め、その評伝や研究書を書いても、「戦後三十数年を経て有名作家との再会を果たした奇跡の子」というのが僕に貼られたレッテルになってしまいました。
それはあなたにもついて回りますよね。誰もが知っている一流の女優の娘だということが。でも、あなたの場合は恨みもしないし、ごく自然に、素直に生きている。母上の教育も本当に上手だったんだなと思います。
内田 窪島さんはもっと葛藤がありましたか。
窪島 葛藤といえばかっこいいけれど、ひねくれていましたね。水上先生を敬愛していながらも、故郷の福井につくった文学館の館長になってくれと言われれば断る。彼の文学世界を愛してはいたけど、そこに近づくなんていうのは嫌でした。
内田 私も葛藤はあります。母が亡くなってから、彼女の遺した数々の言葉のインパクトがいまだにあって、そこに私はたたずんでいるという感じです。もちろん母とは関係ないところで生きてみたいという思いもあります。
でも、一度どっぷり母や父との関係と向き合ってみる機会にするしかない、一度突き抜けてみようと思っています。その先に何が見えるのかに想いを馳せながら。
窪島 それは大テーマですね。僕もどんなものを書いても、水上勉を通り抜けるわけにはいかないんです。養父は靴職人でしたから、僕は36歳までは靴屋の子、36歳以降は作家の子になった。そういう体験をした人はそんなにいないわけだから、自分を一つのモルモットにして、何か普遍的なものを書く。それはやらなければいけないことだと思っています。
寂しさは宝
無言館の成人式で也哉子さんが新成人たちに話をしている、その後ろ姿を見ていたら、也哉子さんは也哉子さんで、僕と同じぐらいの海の深さに生きている仲間だなと思ったんです。でも、80歳になったから偉そうに言わせてもらいますが、寂しさは宝だと思います。寂しくなければ仕事なんてしないんじゃないかな。
内田 仕事というのは「書く」ということですか。それともすべての仕事ですか。
窪島 何もかもですね。生きるためのことに一生懸命になるのは、ひとえに、1センチでも5ミリでも寂しさから離れたいというのがあるからではないでしょうか。寂しいということが仕事の原動力であると同時に、その跳ね返りとして、人に認めてもらいたい。よくやったと言われたい。無言館なんかまさしくそうでしょうね。