「僕は本来あってはならない美術館をやっている」
窪島 でも、あの時間、あのお金がなければ、無言館を建てるなんてことはできなかったわけで、全部を否定するわけにはいかない。ただ、高度成長期の頃の日本人は、都合のいい記憶障害になっていましたね。沖縄では何十万の人、原爆では二十何万人、戦争で三百何十万人もの自国民が亡くなっているという意識は、少なくともおにぎりを売っている僕にはひとかけらもなかったです。ただひたすら板垣退助だけ見つめていた。
ウクライナの戦争を見てもつくづく思います。戦争がなければこの無言館はなかった。僕は本来あってはならない美術館をやっている。それは僕自身のたどった人生も同じような気がします。
金儲けが悪いというわけではないけれど、もう少し次の時代がどうなるか、これだけ空気を汚して、これだけ気象変動を起こし、原発をつくっていいのか考えなければいけなかった。存在してはならない「無言館」が役に立つとすれば、今からでもそういうことを考えるきっかけをここで得てもらうことだと思います。
窪島誠一郎さんは常にアンビバレントな思いを抱いている人だ。好意に甘えたいのに疑う。愛しているのに距離を置く。そして「自らの『出生』とひきかえに、心のおくに『戦争』というある病をかかえて生まれてきた子なのではないのか」と、自身の波乱に満ちた半生の物語『流木記』に綴っているが、その「病」に翻弄されながらも、その「戦争」を伝える無言館を創った。無言館の存在を誰よりも誇りに思っているが、誰よりも強く「あってはならない美術館」だと思っている。
芸術による自由とは。家族という関わりのもたらすものは。私たちひとりひとりの平和とは──。窪島さんがそれらの問いと向き合い、答えを導き出すまでの軌跡が鮮やかに浮かび上がってくるのを感じた。
内田也哉子
うちだややこ/1976年東京生まれ。エッセイ、翻訳、作詞、ナレーションのほか音楽ユニットsighboatでも活動。著書に『ペーパームービー』『会見記』『BROOCH』『9月1日 母からのバトン』『なんで家族を続けるの?』(中野信子との共著)など。翻訳絵本に『ママン—世界中の母のきもち—』など。
くぼしませいいちろう/1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て、浅川マキや寺山修司に愛された小劇場「キッド・アイラック・ホール」を設立。79年に夭折画家の作品を展示する信濃デッサン館、97年に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。著書に『父への手紙』『流木記』など。
INFORMATION
戦没画学生慰霊美術館 無言館
長野県上田市古安曽字山王山3462
0268-37-1650 https://mugonkan.jp/
9:00~17:00 火曜休館
絵を描き続けることを願いながら戦没した画学生たちは、戦時下という不条理な時代に何を描いていたのか─。第二次世界大戦で没した画学生の遺作、約600点を収蔵、展示する。館長の窪島誠一郎が、私財を投じて建設。自らも美術学校を繰り上げ卒業して戦線に送られた洋画家の野見山暁治氏とともに、遺族を訪ね歩いて作品を集めた。
文:内田也哉子(エピローグ)、小峰敦子(対談)、絵:Gento
![](https://bunshun.ismcdn.jp/common/images/common/blank.gif)
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。