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「里見がいま女流をやめるのは、連盟として困るんだ」里見香奈女流五冠(30)の奨励会挑戦を止めた師匠が語る後悔 史上初の女性棋士を目指す弟子に送ったメールは…

「里見がいま女流をやめるのは、連盟として困るんだ」里見香奈女流五冠(30)の奨励会挑戦を止めた師匠が語る後悔 史上初の女性棋士を目指す弟子に送ったメールは…

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2022/08/18
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「それにしても、また2番勝って自信がついたのかな」

 大きな決断をした弟子の気負いをほぐすべく、森九段は冗談を繰り出した。すると、里見五冠は神妙な様子でこう答えたという。

「そんな、自信なんて……勝ったからというわけではないですけど、自分がどこまでやれるのか、挑戦してみたいという気持ちです」

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2012年、奨励会初段に昇段したときの里見さん ©時事通信社

 森九段が語る。

「編入試験を受けるための申請書には、師匠の押印が必要なんですね。ところが提出期限まであと何日もないわけですよ。そのとき私は秋田県にいたものだから、すぐに帰京して書類を将棋連盟に送りました。何とか間に合ったので事なきを得ましたが、それだけ本人もギリギリまで熟慮を重ねたということでしょう」

 里見香奈の棋士編入試験――それは日本における「史上初」を目指す女性の挑戦として、将棋界というジャンルを超えた社会的な注目を集めている。だが森九段は「結果」よりも、挑戦に踏み切った決断そのものに大きな価値があると強調する。

「里見にとって棋士になることは人生の最終目標ではなく、棋界の頂点を目指すためのプロセスでしょう。勝負の世界ですから結果は大事ですが、それがすべてではない。今回の受験は彼女の将棋に対する純粋な姿勢の表れであって、私はそこに尊いものがあるのだと思っています。そして、小学生のころから彼女が心の中に秘めていた男性棋士と同じ立場で将棋を指したいという思いが、いまもまったく変わっていないということに感銘を受けたのです」

「あまり前向きではない」というコメントの意味

 里見が棋士編入試験受験の資格を獲得した際、将棋界では「挑戦を期待したいが、あえて権利を行使しないのではないか」と予想する関係者が多かったという。

「受験すると聞いた時には、直前までそうした雰囲気がなかったので驚きました」

 そう語るのは、全国紙の将棋担当記者だ。

「まず権利を獲得した直後の記者会見で、里見さん本人から『あまり前向きではない』とのコメントがありました。その理由を私たち記者も考えましたが、現在は名人戦など一部を除き多くの棋戦で女流の出場枠が設けられているため、女流トップの実績を残している里見さんはいまのままでも男性棋士の棋戦に出場できるわけです。実際、今期の棋王戦では予選で男性棋士を相手に5連勝し、決勝トーナメントに進出しています」

2010年に女流名人を初獲得したときの里見香奈五冠 ©弦巻勝

 女流であるがゆえに将棋界の真のトップを目指すことができないという状況であれば話は別だが、現状の制度でも全棋士参加の棋戦で活躍することは可能になっている。これが「現状でもOK」という判断が出てくるひとつの理由になる。

 また、もし「合格」となった場合に、本人を待ち受ける大きなプレッシャーや、過酷な対局日程が懸念材料になるのではないか、と見る向きもあった。

「試験に合格し晴れて棋士となれば、里見さんは女流棋士としての活動を継続しながら、棋士としても活躍する“二刀流”になる見込みです。里見さんは女流のタイトルを独占する立場なので女流ブランドを背負うことになりますし、棋士となれば男性棋士にも勝って当たり前という目で見られます。プレッシャーが大きくなるのは確実でしょう」(同前)

 過密日程も課題だ。昨季、里見五冠は公式戦で女流棋戦を中心に67局対局しているが、「二刀流」となればさらに持ち時間の長い将棋が上乗せされる。最初は順位戦フリークラスに編入されるが、一定の成績を収めればC級2組に昇格してさらに10局増える。日本一忙しい棋士になることは確実で、研究時間が十分にとれるかという不安が出てきてもおかしくはない。

 さらに、経済的な意味でも「受験をしない」選択肢は十分にあり得たという。

「現在の女流タイトルは、2021年に新設された優勝賞金1500万円のヒューリック杯白玲戦を筆頭に、4タイトルが500万円を超えるなど賞金の高額化が顕著です。これによって里見さんを含めた女流のトップ2、3人は、タイトルホルダーを除く男性トップ棋士と同じくらいの対局料を稼ぐことができるようになりました。正直な話をすれば、女流のトップを極めることに集中した方が二刀流より収入は高くなる。そういう状況が生まれつつあります」(同前)

 棋士編入試験には50万円(税別)とそれなりに高額な受験料もかかるため、資格を獲得しながら権利を行使しなかったアマチュア男性も複数いる。「ノータイムで受験一択」という試験でないことは確かだが、里見五冠は今回の「挑戦」に踏み切った。

「思い出しますね」

 森九段が古いメモを見ながら、小学生のときから棋士志望だったと語った。