「お金じゃないんですよ。10年以上前、すでに女流三冠だった彼女が『女流をやめて奨励会を受験したい』と私に相談してきたときもそうでした。女流としての地位やそれに付随する収入を捨てることになっても、奨励会に入りたいと言ってきたんです」
2004年に12歳で女流棋士(2級)になった里見は、16歳のときに初の女流タイトル「倉敷藤花」を獲得する。その後、女流王将、女流名人のタイトルも続けて奪取。18歳で史上最年少の女流三冠に輝き、「出雲のイナズマ」と呼ばれた少女は、押しも押されもせぬ女流棋界のスター棋士となった。
ところが、里見の心は別の場所にあった。自分がどこまで強くなれるのか、その可能性を見極めようとすれば「女流」の枠組みからいったん出て奨励会に入るしかない。当時は女流と奨励会の掛け持ちが認められていなかったのだ。
「私の弟子になったときから、彼女の希望は将来は奨励会に入って男性プロと同じ土俵で勝負したいということで一貫していました。私もその方針に賛同していましたが、彼女の成長が想像以上に速く、奨励会に入る前に女流の頂点にまで駆け上がってしまったのです」
女流と奨励会の「重籍」は、過去に認められていた時代もあった。しかし女流を上回る棋力を持つ男性奨励会員が不公平感を募らせたことや、奨励会の日程より女流棋戦の都合が優先されるといった「弊害」を指摘する声が大きくなり、1998年以降は不可能になった。
「里見がいま女流をやめるのは、連盟として困るんだ」
これにより、棋士を目指すアマチュア女性・女流棋士は「最初から奨励会に入会する」か、あるいは「女流をいったんやめて奨励会に入る」の二択を迫られることになった。里見は後者を希望したが、ここでひとつの重大な問題が発生する。森九段は苦い顔で当時を振り返る。
「当時将棋連盟会長だった米長(邦雄)さんに私が呼び出されたのです。2010年のことでした」
将棋連盟の応接室で、森九段は米長会長とこんな会話を交わしている。
「森さんね、里見がいま女流をやめるのは、連盟として困るんだ。何とか思いとどまるよう説得してもらえないか」(米長)
「私としては、本人の意思を尊重したいと考えているんですが」(森)
「気持ちは分かる。分かるけれどもだ。里見が女流をやめれば、女流棋戦のスポンサーから降りると言っている社がいくつもある」(米長)
「理事会を開いて、女流と奨励会の重籍が認められるようにできませんか」(森)
「いますぐは無理だ。何とかしようと思うけれども、とりあえずいまは女流を続けてくれと、師匠から話して欲しい。お願いする」(米長)
里見五冠の奨励会入りを巡る大きな分岐点について、森九段は「あのときは板挟みでした」と本音を語る。
「すでに女流人気を支える存在になっていた里見が抜ければ、当然スポンサーは軽視されたと受け止めるでしょう。ただし、本人の意思も固かった。ただ結論から言えば、私はこのとき自分の気持ちに反して、米長会長の意向通り里見を説得する側に回りました。非常に辛かったですよ。彼女を失望させたかもしれません。でも、私も将棋連盟の渉外担当理事をつとめたことがあり、スポンサーをおろそかにはできないという連盟の立場も重々分かっていました。将棋界全体のことも考えなければならないという断腸の思いでした」
森九段は、「何とか女流と奨励会を両立できるようにするから、いまは思いとどまってくれないか」と里見を説得した。
里見五冠の前にも、奨励会に在籍するために女流棋士が活動を休止していたケース(甲斐智美女流五段や香川愛生女流四段がその一例)は存在した。それにならえば奨励会入りを希望する里見も女流棋士会を休会する必要があったが、制度を変更すればそれは実質的に「里見ルール」となってしまう。特別扱いを好まない里見にとっては、それもまた受け入れにくい提案だったことだろう。
「もちろん、彼女は納得していないようでしたが、師匠に言われたら仕方ないと思ったのでしょう。結局、そのまま女流の活動を継続することになりました。私はあの時、本人の気持ちを尊重できなかったことをいまでも悔いています。だからこそ今回、彼女には編入試験に挑戦して欲しいと思った。制度に翻弄される人生ではなく、自分の運命を自分で切り開く人生を生きて欲しかったのです」
一度は奨励会への挑戦を諦めた里見だったが、将棋連盟が2011年5月に女流棋士と奨励会の掛け持ちを可能にしたことで、再び奨励会の道を歩むことになる。
米長会長は里見に「三段リーグ、もしくはフリークラスへの編入試験」という特別措置を提案したが、当時19歳だった里見はこれを固辞。そして奨励会1級への編入試験に挑むことになった。