2003年7月18日、父に連れられた「香奈ちゃん」が大阪市福島区の関西将棋会館にやってきた。当日、森九段は浦野真彦七段(現・八段)と順位戦の対局に臨んでいた。持ち時間が長い順位戦は、決着が深夜に及ぶことが普通である。その日に話をするとなれば、昼休みの時間しかない。
「とにかく1局、指してみましょう」
森九段の提案で、里見と森九段が盤を挟んで向かい合った。手合いは平手。父が祈るような面持ちで見守るなか、少女は初手、ためらいなく中央の歩に手を伸ばした。里見が現在でもエース戦法としている「中飛車」だった。
「初手▲5六歩ときて、オッと思いましたよ。少し進んで、さらに驚きました。私の将棋なんです。前年より相当、棋力も向上していたし、手も実によく見えていましたね」
森九段は、著書に『中飛車好局集』(1978年、日本将棋連盟)を持つ中飛車の名手である。後に棋界を席巻する「ゴキゲン中飛車」戦法の登場以前、中飛車党のバイブルとして読み継がれた名著だ。後にA級棋士となる先崎学九段も「森流中飛車」に心酔していたことで知られる。
「分かりました。ここで指し掛けにしましょう」
里見は「試験対局」を想定し、この本で綿密な予習を繰り返していた。
この年3月、里見は全国大会の「小学生名人戦」に島根県代表として出場し、男女混合の中でベスト8まで進出している。この大会には、現在トップ棋士として活躍する斎藤慎太郎八段、菅井竜也八段らも出場していた。森九段が「出雲の香奈ちゃん」の棋力に驚いたのも当然の成り行きだっただろう。
「はい、分かりました。ここで指し掛けにしましょう」
対局開始から数分後、森九段は中盤の入り口で将棋を中断し、「合格」を伝えた。
「最後まで指すものと思っていたようで、彼女は呆気にとられた顔をしていましたけどね。力を見るのが目的ですから、それで十分でした。奨励会の6級を受験するにはまだ少し棋力が足りないかもしれないけれど、まずは女流育成会に入ってみたらどうですかと提案し、正式に弟子入りを引き受けることになりました」
女流育成会とは、2009年まで存在した将棋連盟の女流棋士育成機関である。入会し、そこで一定の成績を残して2級になれば女流棋士として認められる。里見の希望は「奨励会」だったが、もっとも下位の6級受験でも「アマチュア四段の実力が必要」と言われる奨励会をいったん回避し、女流棋士の道を選択した。