「極刑がやむを得ないとまではいえない」
「被告人の刑事責任は非常に重いと言わざるを得ず、被害者の両親が意見陳述を行って極刑を強く求めるのは当然であるし、検察官が死刑を求めることも理解できないわけではない。(中略)
殺人の事案において死刑の選択をするに当たっては、生命侵害の態様や犯行の計画性の有無は重要な判断要素になると考えられる。本件の殺害様態は、被告人が被害者の頸部を一般的に人が死亡するのに要する時間と力をかけて圧迫したという事実が認定できるにとどまる。(中略)殺害についての計画性が認められない以上、生命侵害の危険性や生命軽視という観点からの非難が一定程度弱まると言わざるをえない。
(中略)殺害動機は犯行の発覚を免れるために積極的に命を奪おうとしたものではなく、(中略)前科がなく、その犯罪傾向が根深いとまではいえず、障害を持っている可能性もあることや、同種事案の量刑傾向をも踏まえると、本件においては、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないとまではいえない」(東京高裁判決文より)
検察の上告断念で「死刑」の可能性はなくなる
1審新潟地裁に続き、2審東京高裁でも検察が死刑を求刑しながらも、無期懲役判決となった。刑の軽減を求め弁護側のみ上告したため現在、最高裁で審理が進められているとみられるが、検察は「適法な上告理由が見いだせなかった」として上告を断念した。そのため死刑が言い渡される可能性はなくなった。
「これだけ残忍なケースで検察側が死刑求刑を続けても、前例踏襲を重んじる裁判所は動かないともいえます。忸怩たる思いを抱えている裁判官もいるとは思いますが、これが現在の司法制度です」(前出・司法担当記者)
ある検察OBはこうも話している。
「1人殺しで死刑となったケースと比較し、新潟の女児殺害は死刑ではないというのを誰もが納得できるよう、合理的に説明できる裁判官はいないのではないか。それだけ死刑の基準はあいまいだといえます」
40年以上も前の「永山基準」は、遺族にとって不条理そのものと言えるだろう。(続き3回目を読む/1回目を読む)
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