――その頃から自転車競技の試合には参加されていたのでしょうか?
河内 はい。当時は、競輪のように競走路を周回するレースではなくて、10kmくらいの公道を周回するクリテリウムというロードレースに出ていました。初めて参加したのは中学1年生くらいのときですかね。自転車競技自体が今よりも浸透していなかったこともあってか、大人とやるレースに参加したんですが、そこで優勝しちゃいました。
河内 それからも大会には参加して、何度か優勝させていただきました。でも、中学2年生くらいのときに人生初の落車をしてしまったんですよ。しかも、その後3回連続で落車して……。それからしばらくクリテリウムはお休みしました。再開したのは自転車競技部に所属した高校時代です。その時は全国選抜4位という成績でしたね。当時上位だった選手は、ほとんどが同期の競輪選手になっています。
「あと何日、あと何日」と数えながら生活していた養成所時代
――競輪選手になるには競輪選手養成所に入らなければいけないと思うのですが、高校卒業後すぐに養成所に入られたんでしょうか。
河内 そうですね。自転車競技を始めてからずっとそこを目指していたので。女子の場合は60人くらいが受験して20人くらいが合格するという狭き門だったんですが、合格に向けてずっと努力し続けてきたので、不合格の心配はありませんでした。
――長い間目指し続けていた競輪選手になれる一歩手前まで順調に来られたわけですね。実際に養成所に入ってからの生活はいかがだったでしょうか?
河内 入ってからは本当に大変でした……。10ヶ月間施設に泊まり込み。更にコロナ禍だったこともあって、休日も一切外には出られないんです。携帯電話は持ち込めるんですが、普段は預けていて、触れるのは1週間に2時間だけで。
河内 日曜日は休みなんですが、月曜日から金曜日は6時30分に起床して1日8時限の学科・訓練と競輪漬けの日々でした。22時には完全消灯でもう何もできない。
ずっと目指してきた環境ではあったんですけど、当時は「家に帰りたい……」と毎日思ってしまっていました。本当に想像以上に過酷な環境だったんですよ。10ヶ月間慣れることはなくて、毎日「あと何日、あと何日……」と数えながら生活していました。