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《日本中が“ハッスル”した日》「17万人が殺気立っていた」銀メダリスト小川直也が見た“名馬オグリキャップと武豊の奇跡”「1990年有馬記念の伝説」

2021/12/23
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 1990年12月23日、第35回有馬記念。

 オグリキャップが引退レースを飾ったあの日、中山競馬場のスタンドにはJRA(日本中央競馬会)の職員となって1年めの小川直也さんがいた。前の年、明治大学4年だった小川さんは全日本柔道選手権に初優勝し、柔道世界選手権では95㎏超級と無差別級(連覇)の2階級を制した柔道界の若きスーパースターである。就職先にJRAを選んだのは「競馬が好きだったから」と言う。

「当時、学生は馬券を買えなかったけど(笑)、競馬は好きで、よく見てました。元々、JRAに柔道部はあったんですけど、世界で活躍できる人も入れて、JRAをもうすこしスポーツライクなイメージにしていこうという戦略もあって、ぼくもその一翼を担ったということです」

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小川直也さん

オグリキャップもけっこう白くなってきたな

 小川さんが所属していたのはサービス推進部保安企画課(当時)で、警備などをおこなうのが仕事なのだが、柔道部員は平日は事務職で、週末も練習があるために、現場に駆り出されるのは有馬記念だけだった。だから、小川さんが競馬場に行くのは、春に新人研修で東京競馬場に行ったとき以来だった。

「偶然なんですが、研修のときがオグリキャップが勝った安田記念なんです。あの日は、パトロールタワーにのぼって監視する研修をしたり、検量室とか投票所とかを見学して、レースは馬主席から見てました。武豊くんと初めてコンビを組んで、レコードで勝った。武くんが乗るのはあのとき以来だったから、よけいに有馬記念は覚えてますね。オグリキャップもけっこう白くなってきたなとか」

 芦毛のオグリキャップは笠松競馬場(岐阜県)から中央に移籍してきたころは黒っぽい灰色だったが、有馬記念のときは馬体もかなり白くなっていた。