家っていうのは、どこか1か所が壊れるとバババッと続く。「こういうのって、男の人がやる仕事だなぁ」って思ったけど、うちの場合は男がいないから私がやらなきゃいけなくなって。だから、そんなのばっかりですよ。パパが亡くなってからは。
すべての軸が「父が喜ぶか」になっていました
ーー男でもボイラーの故障は、ちょっと厳しそうですね。
アンナ パパの昔の台帳みたいなのを引っ張り出して、「この家のボイラー、どこの会社の?」って調べたらサンヨーって書いてあったけど、サンヨーはもうこの世にないんです。パナソニックが買収したようです。そんな知識がまた1個増えちゃった、みたいな感じで(笑)。
真鶴に住み始めてからそういう大変なことばかりでしたけど、「よしっ、これで1個知識が増えた!」って前向きに考えていかないとやりきれなかったんです。
「この家を大事にしなきゃいけない!」っていう、パパからの無言の圧力みたいなものもありました。私としては亡くなった後のほうがその圧を強く感じて。「そういうものかな」と思って動き続けてきましたが、気が付いたらヘロヘロになってたみたいで。
それで12月25日のボイラー事件の後、30日にお湯が出るようになってからママに言ったんです。「ママ、やっぱり東京帰ろう」「私、たぶんできることはやったと思うんだよね」って。
ーー家そのものがお父様みたいなところが。
アンナ 「パパだったら、これをやったら喜ぶかな」っていつも考えてしまっていて、私のなかではすべての軸がパパなんですよね。自分の意思よりも「パパが喜ぶこと」重視みたいな感じで。「生きていた時に、私も親不孝なことをしてきたな」とすごく思ってたから、恩返しの気持ちでずっとやってきたんだけど。
700坪を管理するのって、私にはもう無理だなと思ったんです。木が折れて、その撤去のためにクレーン車を呼ぶと50万かかるんです。大木を撤去するなんて、東京のマンションに暮らしていたら経験することがないじゃないですか。一軒家を維持する大変さ、一軒家の暮らしは自分に合うのか合わないのかということを、身を持って体感できたんですよね。
ーーお母様のクラウディアさんは、東京に戻ることに納得されましたか?
アンナ お家もきれいにしたし、いろいろ直したから「もうここまでやったんだから、パパは怒らないよね!」って、泣きながらママに言ったんです。そうしたら、ママはもともと東京が大好きな人だったから、「やったー! その言葉を待ってました!!!!」みたいな感じで大喜びしてました(笑)。
写真=三宅史郎/文藝春秋
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