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「南魚沼郡誌」によると、同地域でのクマ猟は、重量物で圧殺する平落とし、または銃で獲った、穴にいるクマを棒を入れて獲ったとある。クマ猟は域内の五十沢、清水、土樽で行われたという。またこの地には秋田から来たマタギもいたともあり、私が秋田の古老からこの話を聞いたのも納得がいく。

 清水村は現在の南魚沼市の南東部にあたり、私は当初5人が入山したのは巻機山(1967m)と考えていた。ところが現地で聴取したところ一行はどうやら、群馬県側の利根郡に越境していたらしいことがわかった。

「古馬牧村誌」によると明治6年に群馬県側で清水越新道が開削され、明治18年には新潟県側でも国道8号(*計画当初国道8号線であったが完成時には国道291号線となり現在に至る)として建設が始まり、翌19年に清水峠で開通式が行われている。明治20年であれば、5人はこの新設の国道を伝って群馬県側に入ったと推測される。

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 残雪期の春グマ狩りの目的は、「クマノイ(クマの胆嚢)」の採取であったろう。当時、クマノイは、それひとつで米が30俵(1俵=60kg)買える高級品であった。

 さて、記事にある米の残量(1斗)から推定すると予定の半行程の4月4日から6日ころにかけて何らかの「事件」が起こったと考えられる。

 5人は互いに介護しあった様子も見られず、ぽつりぽつりと各自の意思、あるいは無意識に散って死んでいったようだ。通常、山中で野生動物が死ぬと、まずカケス、カラスによって眼玉、肛門、傷口から食害が始まり、継続的に食われる。次いでイタチ、テン、さらにキツネ、タヌキの家族によって大量に食われる。時にはクマにも食害される。

ツキノワグマ 著者提供

 5人の遺体に外傷が無かったことは獣類の食害が始まる前に雪に覆われたことを示す。

 事件発生時、既にクマが捕獲されていた様子は感じられない。肉は現地で消費できるものであるが、この時、鍋には入っていなかったようだからだ。

 では何かの中毒死という可能性はないだろうか。

 萌えたばかりのトリカブトを粥に入れたことも考えられる。現代でも稀に中毒が起こっている。しかし山人が、この毒草を知らぬはずがなく、中毒死であれば吐寫物があるはずだが、記事にそのような記述はない。

 一方で5人がバラバラに散って死んでいる点から浮上するのは、ガス性の中毒の可能性だ。雪に埋もれた山小屋で焚き火をすればCO中毒(一酸化炭素中毒)も疑われるが、CO中毒は無知覚で進行するので遺体は一箇所にまとまって発見されることが多い。またCO中毒による死者の外観的特徴は「顔色が血色よく見える」とされるので、手だけが紫色に変色していた本件とは異なるようだ。