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 それでも、1967年8月28日の羽越水害より被害が少なかったという。同水害では新潟・山形の両県で死者・行方不明者が104人に上り、関川村内でも34人が犠牲になった。だが、今回はゼロだった。

1967年の羽越水害に比べ、被害が少なかった理由

「羽越水害の後、荒川の拡幅工事が行われたほか、ダムも建設されました。そうしたハード面整備の効果もあったのではないかと思います」と住民の一人は語る。

 次は、高田地区へ向かう。76世帯が暮らす比較的大きな集落だ。

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 大きな川があるわけではないが、あまりの降水量に一帯が浸水してしまった。ゴミステーションに残された浸水深の痕跡は、身長より高い。よくこれで犠牲者が出なかったものだ。

破断に告ぐ破断。ここでも線路が破断されている(坂町-越後大島間)

「村で地域活動の中心になっているのは60代です。小さい頃に羽越水害で被災したので、水害の怖さを肌で知っています。これが早めの避難や呼び掛けにつながったようです」と鈴木さんは話す。

 鷹ノ巣温泉へ行った。荒川に架けられた吊橋の向こうに2軒の旅館がある。

「ここには国際的なオンライン旅行代理店で第2位の人気となった旅館があります。荒川の景色が見える個室露天風呂が好評なのですが、そのうちの一部が崩れ落ちてしまいました」

 鈴木さんが指さした先を見ると、崩落したのは旅館だけではない。荒川のコンクリートの護岸まで流出していた。「激流で川底や両岸が削れたのか、川の風景も以前とはかなり違います」。鈴木さんはうめくようにして解説する。

 最後に災害廃棄物の集積場を訪れた。うずたかく積まれた山。炎天下にもかかわらず、役場職員らが汗をだらだら流しながら分別していた。1日に3交代で作業に当たり、2~3日に1度は当番が回ってくるのだそうだ。

災害廃棄物の集積場。運び込みが続く(関川村)

「私達も頑張ってます。世の中が忘れてしまわないように全国に報じて下さい」と、担当職員の1人が暑さで息を切らしながら話し掛けてきた。

 残念ながら、まだ廃棄物の片づけすら終っていないのに、社会の関心はすっかり薄れてしまっている。そもそも被災自体が知られていないというべきか。

 さて、米坂線についてである。役場へ戻り、現状と課題について話を聞いた。

もし米坂線が廃線になってしまうと…

 関川村には高校がなく、中学を卒業すると全員が村外へ通う。このため、米坂線の最大の利用者は高校生だ。坂町で羽越本線に乗り換え、村上市や新発田市、遠くは新潟市まで通う。大学生や専門学校生でも使う人がいる。

 現在はJRが走らせている代行バスでなんとか通えているものの、もし鉄道が廃止されるような事態になれば、大きな影響が出る。

 関川村から村上市方面へは民間のバスも運行している。ただ、定期だとJRより割高になり、「村として誘導しにくい面があります」と鈴木さんは言う。しかも、羽越本線に接続して、新発田市や新潟市まで通える時刻には走っておらず、そうしたダイヤが新たに組んでもらえるかどうかの課題もある。