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 面積は2.07平方キロメートルと浮島町の半分以下で、浮島町ほど巨大な工場は見当たらない。しかし、石油化学コンビナートや製鉄所といった工場の数自体はこちらのほうが多い。

 
千鳥町にはなぜか鉄くずが大量に積まれていた。

 そして、一つひとつの工場の迫力は浮島町に劣るものの、やっぱりそこはかとなくスチームパンク感が漂うのだ。

 
 

圧倒的なレトロ感はなぜなのか

 それにはちゃんと理由がある。川崎市臨海部が現在のような工業地帯に変貌し始めたのは、実際にスチームパンクのもとになった時代の20世紀初頭、第一次世界大戦の直前なのだ。

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 もともと川崎市(当時は川崎町)は海苔養殖や製塩がおもな産業だったのだが、町を挙げて工場を誘致。さらに、一代で浅野財閥を築き上げた浅野総一郎が東京・横浜間の沿岸埋め立て事業を開始したことにより、工業地帯に姿を変えていったのである。そして、1950年代半ばに始まった高度経済成長期には、京浜工業地帯の中心として日本の工業発展を支える役割を担った。

 そう聞くと、ここに立ち並ぶ工場群の圧倒的な迫力とレトロ感もうなずける。この巨大な工場たちは半世紀以上、いや、もしかすると100年近くにわたって日本経済を発展させるために働き続けてきたわけだ。赤錆だらけになるのも無理はない。

 
浮島町の工場の赤錆。確実に半世紀以上は経っていそうだ。

 下の写真は千鳥運河にかかる橋から見た夜光2丁目の工場群だが、この風景には「三丁目の夕日」的なノスタルジーがある。60代以上の人は高度経済成長期を思い出すのではないか。

夜光2丁目は運河をはさんで千鳥町の対岸にある。

川崎工場地帯は夕焼け萌えもヤバかった!

 せっかくなので、陽の落ちる瞬間の工場を見ようと思い、最後に東扇島東公園へとやってきた。