安倍晋三氏が初当選を果たしたのは38歳のときだった。父の地盤を引き継ぐ形とはいえ、若手候補者にとって初出馬にはさまざまな困難があっただろう。岸信介の娘として生まれ育った、母・安倍洋子氏はそんな息子の姿をどのように見守っていたのか。
ここでは、1992年4月に刊行された『わたしの安倍晋太郎~岸信介の娘として』(発行・ネスコ、発売・文藝春秋)に、月刊文藝春秋(2016年6月号)に掲載されたインタビュー「晋三は『宿命の子』です」(聞き手・岩田明子NHK解説委員)を加えた『宿命 安倍晋三、安倍晋太郎、岸信介を語る』の一部を抜粋。安倍晋三氏の母、洋子氏が語った政治家一家ならではの選挙観について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
※本文中の組織名・肩書きは1992年当時のものです。
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岸信介と安倍晋太郎を身近に見てきた
主人が病気になりましてからは、晋三はよけいにいつもそばについておりました。その間、2人はいろいろ話しておりましたが、もう晋三が跡を継ぐことははっきりしておりますし、とくに遺言めいた言葉もなかったようでした。ただ、「死に物ぐるいでやれ、そうすれば道は開ける」と激励されたとのことです。
主人はだいたいやわらかい表現はしない人で、病床でも、晋三の姿が見えないと、
「どこに行ってたんだ。秘書なんだからしっかりしなくちゃダメじゃないか」
と叱っておりました。寂しくもあり、晋三のことをいちばん気にしていたのでしょう。
「おれも甘いところがあるけれど、晋三もおれに輪をかけたようなところがあるからな」
と言ったり、
「ちょっと心細いようでもあるけれど、なんとかやってくれるだろう」
と、半分冗談のように言いながらも、やはり頼りにはしているようでした。
晋三は思うことをはっきり言うので周りも気にしておりますが、主人の若いときもものをはっきり言い過ぎて、わたくしはそばでヒヤヒヤすることもありました。選挙区の方が陳情にこられて話を聞いたとき、「ああ、それはダメだ」と簡単に言うことがあります。
「せっかく来てくださったのに、そんなに頭からダメダメと言わないで」
と言うと、
「できないことは初めからわかっているのだから、それを気を持たせるような言い方をするのはかえって不親切なんだ」
と申します。それにしてももうちょっと言い方があるのにと、気を揉むことがよくございました。