父と娘の複雑な関係
杏と渡辺謙の間には、あまりにも多くのことがあった。杏が幼い頃から渡辺謙は2度の白血病で生死の淵を彷徨い、高校生になると杏の母と渡辺謙の間には激しい離婚裁判が起きた。
父が母の宗教と借金を、母が父の不倫を指弾する激しい争いの末に、杏は母の元に残り、母が同級生の親にまで借金を作ったと言われる高校を中退することになる。
単身海外にわたった後にモデルとして成功し、日本でも朝ドラ女優にまでのぼりつめた杏は、億を越えると言われた母親の借金を自らの資産で返済した後、その母から個人事務所からの離脱の無効を提訴された末に、決別することになる。今の社会情勢で書くのは複雑な思いだが、杏の人生には宗教2世としての苦難の影がつきまとう。そして渡辺謙は、思春期から今に至るまで、父として娘のそばにいることができなかった。
だが動画の中の2人の関係が冷え切っていたのかといえばノーだ。
2人ともに優れた俳優であることを差し引いても、それはまるで古い日本映画の中の父と娘がさまざまな確執の上に帰郷して和解するシーンを見ているような、ギクシャクとしながらどこか心が温まるシーンだった。
杏のスーパーウーマンぶり
杏の芸能人生を振り返って驚くのは、繰り返しふりかかる不幸と、それを幾度となく跳ね返してきた、ほとんど非現実的にさえ見える突出した個人の能力である。
苦難が人を磨く、などと軽々しいことを言いたくはない。杏が10代で味わった経験は本来、子供の心をたやすく壊してしまうほど重く深刻なものだ。親の借金で高校を中退した少女が海外でモデルとしてパリコレの舞台に立ち日本芸能界に戻る、などという物語をフィクションで書けば「主人公がスーパーウーマンすぎる」と言われるかもしれない。
だがそれが、実際に彼女が人生で成し遂げてきたことなのだ。いつか大学に行きたくなる日が来るかもしれない、と、大検に合格し高卒資格を取得している杏は、独学で英語やフランス語を身につけ、多忙な中で今も多くの本を読む。
4冊出版されている杏の著書を読むと、その文章の巧みさと読書量の多さ、そして小澤征良と往復書簡を重ね、村上春樹が解説で杏との知られざる交友を語るという縁の広さに驚く。だが中でも心に残るのは、2010年に亡くなったノンフィクション作家・黒岩比佐子との交流を綴った「出会えなかった出会い」(『杏のふむふむ』)だ。