戦後の「親離れ」と「親子げんか」
戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指示で財閥解体、企業経営民主化が示された。東京急行電鉄は、合併していた13の会社の持株をそれぞれの会社の役員に譲渡した。1947(昭和22)年、相模鉄道は独立する。親離れというわけだ。増資、上場、社債発行で資金を獲得する。それは電化と経費節減によって、過去の債務を解消するためだ。
戦後復興期の1950(昭和25)年に朝鮮特需が起き、好景気になると資金も動く。株式の買い占めによる企業乗っ取りが目立ってきた。そして相模鉄道も標的になる。ひとりの取締役の所有株を中心に、大量の株式が小田急電鉄に移動した。小田急電鉄が買収する形になっていたけれども、背景には公職追放された五島慶太の動きがあったという説がある。
なぜ東急が相模鉄道を欲しがったか。その背景に横浜駅西口開発がある。横浜駅西口の大部分は戦前から米国スタンダード石油が所有していた。しかし、戦時中に敵性財産として国に取り上げられ、海軍の資材置き場となっていた。戦後はGHQが接収し、1951(昭和26)年にスタンダード石油に戻されたけれども、スタンダード石油も持て余しており売却の意向だった。
そこで相模鉄道と横浜市が名乗りを上げた。東急にとってもその土地はほしい。ならば、相模鉄道ごと買い取ってしまおうというワケだ。経営権の危機に直面した相模鉄道は、公正取引委員会に提訴。相模鉄道の主張が通った。
買収騒動は1951(昭和26)年、相模鉄道の横浜駅西口取得は1952(昭和27)年だ。まるで相模鉄道の横浜駅西口取得を予見したかのような買収劇だ。筆者の予測だが、横浜市の動きは行政手続きもあって時間がかかり、相鉄側の西口開発含みの資金調達が順調だった。横浜といえば東京横浜電鉄以来の東急の拠点でもある。そこで東急は「スタンダード石油が売り急ぐなら相模鉄道優勢」と察知したのではないか。
時は流れ、レールで握手
その後、相模鉄道と東急グループは独自の沿線開発、街作りを進めた。相模鉄道は横浜駅西口で存在感を示し、いずみ野線開通と宅地開発によって成長する。東急電鉄も多摩田園都市開発に力を入れた。経営陣の世代も変わり、互いにわだかまりもないようだ。
相模鉄道の1950年代の電車は日立製作所製だったけれども、改造は東急グループの東急車輌製造(現・総合車両製作所)に発注したし、1990年代以降は車両製造も東急車輌製造とJR東日本新津車両製作所の受注が多い。ちなみに東急車輌とJR東日本新津車両製作所は、2014年にJR東日本の子会社「総合車両製作所」になった。
1996年に運輸大臣(現・国土交通大臣)は、都市交通審議会に対し「横浜及びその周辺における旅客輸送力の整備増強に関する基本計画について」を諮問した。都市交通審議会の答申には、6号線として「茅ヶ崎-六会付近-二俣川-勝田-東京方面」が示された。このルートは1985年の運輸政策審議会答申第7号で「二俣川から新横浜を経て大倉山・川崎方面へ至る路線」とし、大倉山で東急東横線に直通する構想が示された。これが神奈川東部方面線構想だ。