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 1917(大正6)年12月、相模鉄道が誕生する。東海道線の茅ヶ崎駅を起点とし、寒川、倉見、厚木を経由して橋本駅まで。相模川沿いのルートで中央線沿線と東海道線沿線を短絡する。全線開業は1931(昭和6)年だ。じつはこの路線、現在のJR東日本相模線だ。のちに戦時体制で国有化され、戦後も国鉄路線のまま。そしてJR東日本に引き継がれる。

 それでは今の相模鉄道はどこかというと、同じ1917年12月に誕生した神中鉄道だ。東海道線保土ヶ谷から二俣川を経由して厚木に至る構想だ。その後、起点を保土ヶ谷から横浜へ変更し、厚木から平沼橋まで1931(昭和6)年に開業。2年後の1933年に平沼橋~横浜間を開業する。

 この2つの路線の趣旨は同じ。神奈川県中央部の人々にとって交通が不便で、東海道沿線へ農産物を大量輸送できないため、鉄道が望まれていた。相模川沿岸は砂利の産地でもあり、相模鉄道は開業前に砂利採取販売の認可を受けた。関東大震災後は、神中鉄道も砂利採取販売に参入する。しかし、起業から全線開通までの期間を見ても推察できるように、建設は順調ではなかった。また、関東大震災で打撃を受けた鉄道に代わり、バスが普及しつつあったため、鉄道運行も厳しくなっていく。

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 1939(昭和14)年、東京横浜電鉄は神中鉄道の株の過半数を取得し、子会社とした。東京横浜電鉄は自社の路線の改良工事によって、変電設備や車両が余っていた。これをクズ鉄屋に売るよりも神中鉄道で活用しようと考えた。社長は東京横浜電鉄社長の五島慶太が兼任した。

相模鉄道は国有化され、現在はJR相模線になった。神中鉄道は相模鉄道と合併後存続。どちらも東京急行電鉄(大東急)の子会社だった

「大東急」と呼ばれた時代

 相模鉄道の沿線は砂利産業が好調で、なかでも昭和産業が豊富な資金力で相模鉄道株を買い占めていた。しかし1941(昭和16)年の水害で砂利産業が機能しなくなった。すでに神中鉄道を傘下にした東京横浜電鉄は、この昭和産業株を取得して子会社化した。社長はやはり五島慶太だ。

 1943(昭和18)年に神中鉄道は相模鉄道に吸収合併された。理由は厚木駅を介した輸送を円滑にするためだ。どちらも社長は五島慶太だ。契約代表者も五島慶太ひとり。なお、前年にあたる1942(昭和17)年の陸上交通事業調整法(戦時合併)により、親会社の東京横浜電鉄は小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)と京浜電気鉄道(現・京浜急行)を合併して東京急行電鉄となった。後に「大東急」と呼ばれた時代だ。

 東京急行電鉄は1944(昭和19)年に京王電気軌道(現・京王電鉄)とも合併するけれども、相模鉄道は合併せず東京急行電鉄の子会社のままだった。旧相模鉄道の路線は東海道線と中央線を結ぶ性質が重視されて国有化された。神中線区間が相模鉄道となる。しかし、戦時輸送が急増したため手に負えなくなり、鉄道事業を東京急行電鉄に委託する。その意味で相模鉄道も大東急の構成員だ。