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神戸で出会った“理想的な中華料理屋” 74歳店主がつくる「400円のラーメン」はホッとする味だった!

B中華を探す旅――神戸「春日飯店」

2022/09/20
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「前はこの商店街も、人の頭でもう(先が)全然見えなかったんです。いまはもう全部、上から下まで見えるでしょ。まあ、ずいぶん様変わりしましたね。でも、シャッターがバーッと下りた商店街よりまだマシですかね。上に阪急と阪神の駅がありますからね。三宮まで一駅いうことで、みなさん、ここをベッドタウンにするにはちょうどええんじゃないですかね。ついこの間もそこへ15階建てのワンルームマンションができたんです。で、またこの下に15階建てのワンルームとファミリーと半分ずつのやつが工事やってます。そんだけ住む人、おるんかなあ」

 

厳しい父のもと、16歳で修業を始めた

 長きにわたって町を見続けてきたからこそ、思うことはいろいろあるのかもしれない。そんな森岡さんは、父親の店を引き継いだ2代目だ。中学を卒業したら店を手伝えといわれ、「勉強もさしてもらえんと」16歳で店に入った。

「2回ものを聞いたら怒る親父でね。こういうオープンカウンターでしょ。ようどつかれるんですよ。『お父さん、こうやったですかねえ?』っていうたら、『1回で聞いとけ!』とバーンとどつかれるから、恥ずかしくてねえ。もうたまらんやったです。あとで当時のお客さんから、『僕、ようどつかれとったなあ』って(笑)。それから18になったら、『もう1軒店出すから、今度はおまえ1人でやっとけ』って置いていかれて。それで18で置いてけぼりになって、1人でやってたんです」

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 親にいわれるまま店に入って修業し、18歳から1人で切り盛りをするようになるとは、なかなか大変そうではある。「うん。なんでしょうかねえ、成り行きというんですかね」と笑うが、それでも思春期のまっただなか。葛藤のようなものはなかったのだろうか?

「葛藤? ありましたよ。でも、別に嫌いな仕事じゃないし、まあ、理想とはかけ離れてるんですけど。僕、散髪屋か、船乗りになりたいとか、いろいろ思うとったんやけど。だけどこんなことになってもうて。ほんでもう、なんとなく続いてこのままなんですけど。あのころ散髪屋か船乗りになろうと思ったのは、歩留まりがいいじゃないですか(笑)。自分、子どもなりに探しとったんです。『あれは腕だけやな』と。ハサミも高いですけど、揃えといたら、あと、いらんでしょ」

「なんていい商売なんだろう、と思いましたね」

 16歳で、そこまで考えていらっしゃったとは恐れ入る。正直なところ、16歳のころの私はアルバイトとレコードと女の子のことしか考えていなかった。

「まあねえ。貧困やったから。あの当時、貧困な人のほうが多かったで、それで早いことお金儲けしたいなあというのが念頭にあって。だから、『日銭が稼げる、なんていい商売なんだろう』と思いましたね。でも、1人でやるようになってからは、まあ、自分の天下じゃないですか。雨降ったら休み、とかね(笑)。徹夜麻雀して、しんどかったら休みとか。そんなこと最初のうちしてましたよね。そしたら麻雀屋さんの大将が、『焼き飯、4つ持ってこい』とかいって怒ってくれてね。『いや、今日は休むねん』と断ったら、『いや、あかん、あかん。待っとったるさかい、持ってこい』いうて」