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2022/09/14

いわゆる「梨園の御曹司」ではなかった

 ただ、いとこである彼らとは違い、獅童は父が歌舞伎俳優をやめて久しく、いわゆる「御曹司」ではなかった。歌舞伎座に通うのも最初のうちは母の陽子が送り迎えしてくれていたが、慣れてきたのを見計らって電車で通いなさいと言われた。華やかな舞台と、帰りの電車内で酒臭いサラリーマンと隣り合わせたりする現実との落差は子供心に大きかった。のちに当時を振り返った彼は、《電車に乗れば一般社会という現実があり、自分が虚構と現実の世界を行ったり来たりしていることに気づいてましたね。家に帰ると「もう、小川幹弘に戻っていい?」と、親に言ってたらしいですから》と語っている(『婦人公論』2007年1月22日号)。

 御曹司であれば周囲に兄弟子や付き人が何人もおり、世話してもらえる。獅童の母に言わせると、こうした環境からおっとりしたお坊っちゃまという感じで育つのが、歌舞伎役者の真骨頂だという。現実感があっては舞台で昔の人になりきれないからだ。《それに比べ獅童はほっぽり出されて育ったからか、リアルなのよね。それが映画などには生きているのですけど》(小川陽子『言わぬが花』主婦と生活社、2006年)。

(左から)松本幸四郎、市川海老蔵、中村獅童 ©文藝春秋

 祖母も「役者は立ち居振る舞いに品がにじみ出ていないと駄目だ」と、獅童に厳しくしつけを叩きこんだ。一方で、彼が高校でロックバンドを始めたときには、怒るどころか「いいじゃない。どんどん歌いなさい。どんなことでも歌舞伎の役に立つから」と逆に後押ししてくれたという。ただ、本心では、父親が歌舞伎俳優でなければこの世界では厳しいと考えていたようだ。勉強嫌いの獅童が大学に進んだのも、役者になれなかった場合、普通の社会人としての教養を持っていなければだめだと祖母が受験を勧めたからだった。

俳優人生の転機となった作品は…

 その祖母は1994年に死去した。臨終の際には彼の両親に「せっかく襲名したけれど、獅童を役者にするのはあきらめなさい。この世界に父親がいないのは首のないのと同じこと」と言い遺したという。

 実際、子役を卒業してからの獅童は、役がなかなかつかなくなっていた。19歳のときには、ある歌舞伎関係者から「獅童さんが歌舞伎座で主役をとるのは難しい」とはっきり言われた。そこで、どうすればいい役につけるかと訊ねると、「名前を売ってください」との答えが返ってきた。

 それからというもの、さまざまなオーディションを片っ端から受けては落ち続ける。そのなかで卓球を題材にした青春映画『ピンポン』(2002年)で、ドラゴンという強豪選手の役を獲得、原作コミックと同じく髪も眉も剃って強烈なキャラクターを演じきった。これが高く評価されたのを機に、一気にドラマや映画への出演が増え、ブレイクを果たす。このとき、すでに30歳となっていた。

映画『ピンポン』(2002年)

 そんな獅童に早くから目をつけ、何度となく舞台に引っ張り出してくれたのが18世中村勘三郎(当時・勘九郎)だった。初めて声をかけられたのは1995年、『若き日の信長』という舞台でのこと。久々の歌舞伎座での公演に獅童は張り切り、名もない武士の役ながら性格や背景を自分なりに想像して演じていたところ、秀吉役の勘三郎が「君いいよ、とてもいいっ」と強く肩をつかんで励ましてくれたのである。