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ビール、日本酒、和食に洋食も…「日本の居酒屋」がメニューにこだわらなくなった“歴史的背景”

『お酒はこれからどうなるか 新規参入者の挑戦から消費の多様化まで』より #1

2022/09/16

居酒屋が登場した背景

 居酒屋が登場した背景には、100万都市として知られた江戸の人口構成に特徴がある。1721(享保6)年に実施された人口調査によれば、町人人口約50万人の約64パーセントは男性であった。武家の人口調査はないが、町人と同数程度であるというのが通説である。

 参勤交代制度の存在を考えると、各藩の江戸屋敷の武士の多くは単身赴任の男性だったといわれる。また、江戸でのさまざまな仕事や雑役を担う労働者も、地方から大量に流入していた。多くは単身で自炊していたであろうが、同時に酒も料理も提供する外食産業への需要も大きかったと考えられる。1811(文化8)年の調査では、江戸には1808軒の居酒屋があったという。

 当時の居酒屋のメニューは意外に豊富だ。「ふぐ汁」「あんこう汁」「ねぎま」「まぐろの刺身」「湯豆腐」「から汁」(おから入り味噌汁)などである。酒は上方からの下り酒が人気であり、特に伊丹の「剣菱」や「老松」が代表格であった(その後は、灘五郷の酒に主役を交代された)。

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 このように、酒場の起源は奈良時代にさかのぼることができるとしても、飲食が一体化した「居酒屋」というビジネスの普及をみたのは江戸時代後期であった。また客層も、荷商人、駕籠かき、車引き、武家奉公人、下級武士など多様であった。

近代化と居酒屋

 明治維新の頃に創業し、現在も営業を続ける老舗居酒屋が開業した年を挙げてみよう。

 1856(安政3)年「鍵屋」(根岸)、1884(明治17)年「柿島屋」(町田)、1905(明治38)年「みますや」(神田)などがその代表例である(https://syupo.com/archives/56144 2022年3月27日閲覧)。

 これらの老舗は、江戸時代後期の居酒屋の雰囲気を今日に伝えている。神崎(1998)によれば、明治期以降も、こうした正統派の居酒屋は、場末の飯屋を兼ねたような居酒屋とともに、栄えることはあっても廃れることはなかった。

 しかしその一方で、明治時代には、居酒屋の世界でも外部からの重要な変化が生じていく。それは文明開化に伴う飲食の洋風化である。

 第1の大きな変化は、ビヤホールの誕生であろう。日本初のビヤホールは、1899(明治32)年に華々しくオープンした「恵比寿ビヤホール」(新橋)であった。

 これにより、日本酒と料理を出す居酒屋とは異なる、ビールと料理のビヤホールという新たな業態が生まれた。

「恵比寿ビヤホール」は盛況であった。加藤(※4)によれば、1日平均800人の来客があり、「フロックの紳士と車夫、職工、兵服が隣り合ってビールを飲み微笑む風景もみられた」という。

 第2の変化は、洋食の確立と普及である。岡田(※5)によれば、洋食確立までには4期ある。