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 パブリックハウスの飲酒の場は、3つの空間に仕切られていた。バールーム、タップルーム、そしてパーラーである。バールームでは酒が売られ、そこで飲むこともできる。ここには誰でも自由に出入りできた。タップルームは労働者や職人が集まって酒を飲んだり情報交換したりする、やや閉じられた空間であった。そしてパーラーは、上流階級の集まりに使われた豪華な空間である。海野(※2)の表現を借りるなら、「酒場の空間が階級によってはっきり区分」されていた。

 この中のバールームとタップルームに当たる部分が独立し、「パブ」が誕生した。そこには広間があり、主にビールやウイスキーが提供される。食事は軽いおつまみ程度のもの(煮キャベツや酢漬けのビート〔甜菜〕など)しか出なかった。

 こうして、お酒を飲む場所はパブ、食事をする場所はレストランという明確な機能分化が進んでいった。英国のパブは、労働者が集まり、ビールを飲みながら、ときには憂さ晴らしを、また、ときには真剣な議論や交渉をするための「公共の」場所となったのだ。

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 現在では、パブは単なる酒場である。名前だけなら「イン」や「タヴァン」というノスタルジックな名の付いた酒場も珍しくない。しかし、パブの歴史を反映して、英国の酒場では、料理は出るが、フィッシュ・アンド・チップスといった軽食のメニューに限られている。パブは、労働者や一般庶民がもっぱらビールを楽しむ場所であることに変わりはない。

 なお、スペインにはバルがあり、ここではビールやワインとタパス(英国パブよりはバラエティのある小皿料理)などが楽しめる。しかし、バルの位置づけは、あくまでもレストランでのディナーの前のお酒とおつまみを提供する場所である。

日本の居酒屋の成り立ち

 日本では、酒を提供する営業行為は奈良時代にさかのぼる。平安時代の初期に編纂された『続日本紀』によれば、奈良時代の761(天平宝字5)年に、酒肆(酒場のこと)に関する記載がある(平凡社『世界大百科事典』第2版)。詳しくは触れないが、およそ酒が醸造され、貨幣経済があれば、酒の売買は成立しえたし、何らかの酒場があったと考えることが自然であろう。

 しかし、現代のような飲食が一体化した「居酒屋」が登場したのは、江戸時代後期のことであった。以下、飯野(※3)に基づいて「居酒屋」の成り立ちを概観する。

 まず、「居酒」とは、酒屋(酒販店)で量り売りされた日本酒を店内で飲むという意味である。「居酒」という言葉が現れたのは、江戸時代の元禄期(1688~1704年)のことだという。例外はあるが、酒屋での料理の提供はなかった。

 これに対して、料理の提供を主体とするものは「煮売茶屋」と呼ばれた。そこでは煮物、汁物、鍋物などが供された。この「煮売茶屋」で酒も提供するようになった業態が「煮売居酒屋」、または略して「居酒屋」であった。