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 大宮駅が開業したのは1885年3月のこと。そのとき通っていたのは現在のJR高崎線で、駅開業から4か月後に現在の宇都宮線(東北本線)が開通し、分岐の駅になった。高崎線は1883年に開通していたから、それから2年たってようやく大宮に駅ができたというわけだ。

 これには、ひとつに熊谷か大宮か、どちらで宇都宮方面に分岐するかという争いにおいて大宮に軍配があがったからというのがその理由。もうひとつに、大宮になんとしても駅を設けてくれと、地元の人たちが強く訴えたからである。

知られざる浦和との「因縁」は明治のはじめに…なぜ大宮の人たちはそこまで必死に駅の設置を訴えたのか?

 大宮の人たちが、なぜ必死に駅の設置を訴えたのか。それは、明治のはじめの屈辱があった。

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1869年1月、いったん大宮県が設置されるも、県庁舎が大宮に置かれることはなく(東京馬喰町にあった)、わずか8か月で浦和に県庁が置かれて浦和県に改称している。これがそのまま出世して、いまの埼玉県庁になった。

 つまり、大宮はほんの一瞬だけ“県庁所在地”になりかけたが、実をつかむことなくその役割を浦和に譲ることになったのだ。

 浦和も大宮も、もとは中山道の宿場町。隣り合う宿場町だったから、仲良くとはいかなかったかもしれないが、それなりに関係は深かったのだろう。

 

 ところが、県庁が浦和に置かれたことで大宮は一時的に大いに衰退してしまう。1869年には2000人近くいた大宮一帯の人口は、わずか10年で1000人を下回るまでに激減してしまったのだ。

 のちに合併前の大宮市だけで45万人の都市になったことを思えばずいぶんスケールの小さな話だが、明治の初めは全国どこだってそんなもの。

 もともと同じ宿場町仲間だったのに、県庁があるかないかの違いが響いて、1883年の日本鉄道開業時には浦和に駅ができても大宮には駅ができなかった。このままでは中山道の宿場町としての歴史を持つ大宮が消えてしまう……。大宮の人々は、そんな危機感を抱いたのかもしれない。