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 ずっと虐待を受け、施設にたらいまわしにされて、はては人を殺めてしまった子とかにインタビューをすると、全く言葉を持っていないんですね。「なぜ殺してしまったのか」をうまく言語化できないし、言葉がないから、自分の心の動きを捉えられない。

 重大な罪を犯した少年たちと接していて一番感じたのは、「ぶっ殺す」といった言葉を使う前に、自分のこの感情はなんなのか? 本当に殺したいと思っているのか? といったように感情を言葉で細分化して考えることができる力があれば、その行動は思いとどまれたのではないか? ということです。

 言葉は社会で生きていく力に深く結びついていると痛感するなかで、近年多くの教職員の方から子どもたちの国語力低下を嘆く声を聞いたのが、このテーマに取り組むきっかけとなりました。

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 現場で教えている先生の実感としてどうでしょうか?

“国語力低下”の一因だと感じるのは若者が使いこなす、あのツールです

伊藤 私は今、主に大学生を相手に教えていますが、文学部なのでそれなりに本を読んだり、書きたいと思っている子が多くいます。ただそれでも最近強く感じるのは、「読書で背伸びをしなくなった」ということ。自分が読みやすい本ばかり読んで、ちょっと難しいけど読んでみようというチャレンジをしない。だから、大学1年と2年で、読めるものの水準がさっぱり上がらないんです。

 昔は、まわりの友達から難しい本の話題が出ると、その場では知ったかぶりして合わせて、帰ったらすぐその本を読むとか、次に会う日までに理論武装していくような教養文化が大学生の間にありました。それは見栄ではありましたが、相手についていこうということでもあった。こういう「知的な見栄」など張らない方が楽なのかもしれませんが、難しい書物に手をつけないのは、作者が掘り下げた複雑な思考を最初からわからなくていいやと手放してしまっているんですね。

©松本輝一/文藝春秋

 これはもっと手前の段階でいうと、普段から「別に友達が何を考えているかわからなくてもいいや」という、非常に浅いコミュニケーションのなかで人間関係が成立していることにも繋がっている気がします。わからない所があったら突っ込んで話し合う――そんな人間関係のベースとなる経験が失われているのかもしれません。

 希薄なコミュニケーションが主流になってしまったのは、SNSもひとつの要因ではないでしょうか。