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一方で今の生徒たちにも同情すべき点がある

 ただ、生徒たちに同情すべき点もあります。社会がグローバル化し複雑化するなかで、いわゆる常識というものが階層やコミュニティによって細分化されてしまっています。昔は日本人全体で共有されていたような常識が、家庭によってバラバラになってしまっています。

 例えば、ラーメン屋の店員がある家族にラーメンと箸を出したところ、クレームになったそうです。その家庭はコンビニでカップ麺を買って、プラスチックのフォークで食べているのが日常だったそうです。だから、ラーメンはフォークで食べるものだと思い込んでおり、箸を出されて怒ったのだとか。その家族にしてみれば、寿司屋に行って寿司とフォークを出されたような感覚だったのでしょう。

 現代は、ラーメン一つとっても、これくらい常識にギャップが生まれる時代なのです。さらにそこに教育格差で「国語力カースト」とでもいうべき、言葉の理解力・発信力の差が加わってきますから、コミュニケーション上の齟齬も生まれやすい。よほど言葉で状況を熟慮し、想像し、表現する力がないと、トラブルになりかねないのです。僕は能力の基盤こそが、言葉をもとにした情緒力、想像力、論理的思考、表現力の集合体である「国語力」だと思うのです。

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©松本輝一/文藝春秋

伊藤 相手の立場に立ち、なぜこの言葉がいま必要なのか、どう書けば相手に伝わるかを考える――それがコミュニケーションの基本であり、国語力を育むには、ある程度の長さのある文を読むことが肝心だと思っています。

どのように“国語力”を育めばよいのだろうか

石井 小学校低学年くらいまでは、国語力は主に家庭の中で育まれていきます。それ以降の年齢になると、今度は読み書きなどを通して能動的に身につけていかなければならなくなる。たとえば、10代の頃に長い文を読むことによってでしか感じられないものって確かにありますよね。取材したある私立中学校では、国語のテキストとして、丸1学期間かけて『アンネの日記』を精読しますが、14歳のアンネが書いた長い日記を読み込むことで、同じ世代の人間が、戦争の中で日々何をどう感じたのか深く考えられる。

 無論長ければいいわけではありませんが、やはり1冊の本の中で細やかな心の動きをきちんと読み取っていくことで育まれる「他者へのリアルな想像力を伴った」国語力というものは大きいと思います。