ちょうどその頃(1968年末)、毛沢東は若者を農村や辺境での農作業に強制従事させる「上山下郷(じょうざんかきょう)運動」に着手した。近平は、農村への下放を喜び、自ら志願して、1969年1月、かつて父親が革命闘争した陝西省延安に「逃げる」ことを選んだ。
空腹のあまり生肉を食らう
浙江省党委書記だった2004年8月、延安電視台(テレビ局)の「我是延安人(私は延安人)」という番組のインタビューに応じたが、ここで習は「延安に向かう専用列車の中では全員が泣いていたが、私は笑っていた。北京にいては命があるかどうかも分からなかったからだ」と回顧している。このインタビューで、その後有名になるエピソードをいくつも紹介している。
近平は下放先の梁家河(りょうかが)村に到着してすぐ、村民から「犬にパンを食わせた知識青年」というあだ名を付けられた。北京から持ってきたカバンの中に、乾燥したパンが残っているのを見つけ、もう食べられないと思い、犬に与えたのだ。しかしパンなど見たこともない村民は大騒ぎし、反革命分子の子供は西洋の贅沢な食べ物を浪費していると誤解された。
空腹でずっと肉も食べられず、運ばれた肉を見た瞬間に我慢できず、生のまま食べたこともあった。さらに、あまりに苛酷な農作業が一日中続き、タバコを吸えば手を休めて一服できる習慣があったため15歳でタバコを覚えてしまったとも白状している。ちなみに、1回覚えたタバコはその後もやめられず、妻の彭麗媛(ほうれいえん)は2003年のインタビューで、「夫に少し良くないことがある」として喫煙習慣を挙げている。「健康を害することを知っているが、夫には他に趣味がなく、仕事も忙しい。小さい楽しみも奪ってしまうことは忍びない」と理解を示した(中国誌『文代大観』)が、習近平がその後、長寿のため禁煙したかどうかの情報はない。
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北海道大学大学院教授・城山英巳氏による「習近平の仮面を剥ぐ 愛憎渦巻くファミリーの歴史」全文は、月刊「文藝春秋」2022年11月号と「文藝春秋 電子版」に掲載しています。
習近平 愛憎渦巻くファミリーの歴史