そうした声に押されるかのように、彼は浮上する。5年後に引退する胡錦濤(こきんとう)総書記の後継者として、胡と同じ共産主義青年団(共青団)出身の李克強(りこくきょう)遼寧省共産党委員会書記(現総理)が優勢だったが、あっという間に上海市党委書記の習近平が急浮上し、最高指導部・政治局常務委員会(当時は9人)の序列で、6位の習が7位の李を上回った。
「紅い血」を受け継ぐ近平の父、仲勲はどんな人物か。
中国西北部に位置する陝西省富平県で生まれた。共青団に加入したのは13歳。15歳だった1928年、愛国学生運動に参加した際に逮捕され、獄中で共産党に入党した。約30年後に運命を決める革命家・劉志丹(りゅうしたん)と出会い、蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍を敵にゲリラ戦を戦い、1934年11月に「陝甘(陝西、甘粛省)辺区ソビエト政府」を樹立した。21歳の仲勲は同政府主席に就いた。同志には、建国後に中央人民政府副主席になるが、毛沢東から「反党」と糾弾され54年に自殺する高崗(こうこう)がいた。
1934年10月、毛沢東らは蒋介石軍の掃討作戦を受け、中南部・江西省瑞金に建てた革命根拠地「中華ソビエト共和国」を捨て、8万人の紅軍(共産党軍)を引き連れて約12500キロを歩く「長征」と呼ばれる大敗走を開始した。毛沢東は、途中で陝北(陝西省北部)に劉志丹と習仲勲の革命根拠地があると知り、そこを目指し、36年10月に到着した。残ったのはわずか1万人。毛沢東は最終的に陝北の延安に本拠を築き、抗日戦争と国共内戦に勝利した。仲勲らがいなければ、毛沢東の新中国は誕生しなかったかもしれない。
96歳で存命の母・斉心(さいしん)も1939年、13歳で八路軍(共産党軍)の戦士になった闘士。44年、仲勲は前妻と別れ、斉心と結婚した。
1冊の小説で16年間投獄
1949年の中華人民共和国成立後、共産党中央西北局第二書記として陝西省にいた仲勲が、毛沢東から呼ばれ、中央宣伝部長に就くのは1952年。翌53年6月に習近平が誕生するが、「北京(49年まで「北平」と呼称)に近くなった」ため、「近平」と命名された。近平は政権中枢「中南海」で幼少期を過ごした。