仲勲は59年には国務院副総理に昇格し、周恩来(しゅうおんらい)総理の右腕となったが、悲劇は3年後の62年に起こる。原因は一冊の小説だった。
若き仲勲の戦友で、1936年に戦死した前出劉志丹の弟夫妻が、兄を題材にした『劉志丹』を執筆、出版した。しかしこの中に、失脚した前出高崗をモデルにした人物が登場するため、毛は「小説を利用して党に反対するとは一大発明だ」と批判。仲勲は「小説執筆の裏にいる」との罪をなすりつけられて失脚、副総理も解任された。16年に及ぶ審査と下放、投獄の始まりだった。「反動分子の子」近平少年にも悲劇が降りかかる。
インタビューで語っていた文化大革命
習近平が中国メディアによる本格的なインタビューに応じたのは1996年、2000年、04年の3回ほどしかない。興味深いのは、マスコミ嫌いの彼が3回とも、父の失脚4年後の1966年に始まった文化大革命での思い出したくもない悲劇を饒舌に語っていることだ。
福建省福州市党委書記時代の1996年4月、『中国紀検(規律検査)監察報』に掲載されたインタビューでは「実際に私は一般の人より多くの苦しい目に遭っている。文革中に4回監獄に入り、『反動学生』として、大小十数回にわたり批判大会で吊し上げられた。飢えて『物乞い』をやったこともある。監獄の中で体中シラミだらけだった」と振り返った。
福建省長時代の2000年、共青団系の雑誌『中華児女』社長とのインタビュー記事「私はいかにして政界に入ったか」で語った次の思い出には、習近平のプライドと反骨心を彷彿させるものがある。
「文革で我が家は捜索、差し押さえられた。当時の私は頑固で、なめられるのが嫌だった。(反抗したから紅衛兵の)造反派ににらまれ、何か悪いことが起こると、すべて私のせいにされた。当時、15歳に満たなかったが、彼らは私に『お前の罪がどんなに重いと思っているんだ』と責めた。『銃殺刑で十分か』と私が答えると、『銃殺刑100回分だ』と返された。これに対して『(死ぬのは1回だから)100回も1回も変わらない。100回でも何も怖いことはない』と言い返した」 日本の少年鑑別所に相当する「少年犯管理教育所」に収容された。そこには打倒された幹部の子供たちが再教育を受ける「学習班」があったからだ。