これはInvoluntaryCelibateの略語で、直訳すれば、望まない禁欲者、非自発的な独身者、というような意味である。近年、インセルたちの反逆や暴力という現象が国際的な社会問題になっている。ぼくはさらに『非モテの品格』の続編としての『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か──#MeTooに加われない男たち』(集英社新書、2021年)で、まさに映画『ジョーカー』について論じてみたこともある。

 だから、上記の事件の報道を目にしたとき、心にざわつくものがあった。ちょっとした不運がさらに加われば、ぼくもまたインセルになりかねなかったし、今後なるかもしれない。あらためてそう感じた。

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小田急線や京王線の事件の犯行とアーサーが振るった暴力の決定的な違い

 もちろん個々の事件の詳細についてはわからない。単純化されたアングルから事件を切り取って理解したつもりになるのは危険だろう。

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 ただ、気になるのは、彼らが自分たちの暴力を社会的弱者(とされる人々)へと差し向けようとしたことだ。それらの犯罪は「誰でもよかった」のではなかった。つまり「無差別」殺傷ではなかった。明らかに「差別的」な殺傷だった。

 これらの事件には、2016年7月、神奈川県相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で起きた、45人もの死傷者を出した事件とも似通った手触りがある。

 京王線の事件の男は、現代的な弱者男性のシンボル、ジョーカーのコスプレをして犯行に及んだ。

 映画『ジョーカー』では、アーサーの暴力に触発され、その欲望に感染するかのように、ピエロの仮面をかぶった群衆たちが、アナーキーな暴力に陶酔し、街を焼き、車を破壊した。

 ただし、忘れるべきではない点が1つある。小田急線や京王線の事件の犯行と、『ジョーカー』でアーサーが振るった暴力には、決定的な違いがある。

 日本社会で起こった一連の事件の犯人とは違い、アーサーは、少なくとも、「下」(と社会的に見なされている弱者たち)ではなく、資本主義と権力構造の「上」へとその銃口を差し向けたのである(たとえ複雑な家族関係のもつれから、母親を殺してしまったとしても)。

 アーサーの中にあったのは、無差別を装った差別的な憎しみではなく、社会的な怒りだった。

 弱者男性としてのアーサーが殺したのは、「幸せそうな」女性でも、高齢者でも、障害者でもない。また彼には、外国人や移民に対する排外主義的な差別意識があるわけでもなかった。