しかしアーサーは、周囲の空気を壊して発作的に笑い出す、という障害を抱えていて、定期的に薬を飲んだり、カウンセリングを受けたりしなければならない。さらに物語の途中で、ゴッサム・シティの財政難から、それらの行政の支援も打ち切られてしまう。
『ジョーカー』は、様々な視点から読み解くことのできる作品だ。
ひとまずここでは、経済格差や障害者差別、家族介護の問題などが複雑に絡みあっていく状況の中で、ひとりの男性がいかにして追い込まれ、社会の片隅に置かれ(=周縁化され)、「弱者男性」化されてしまうか──そうした現代的なテーマを正面から扱った作品として受け止めてみたい。
アーサーが「現代の弱者男性のシンボルである」と言える理由
アーサーは、現代の弱者男性のシンボルである、と言おう。
複合的な要因から生じたアーサーの貧困(経済的貧困、失業、血縁・親族の支えがない、母親の要介護、被虐待経験、脳の障害、教育の不足……)に対しては、福祉国家による再分配の機能、あるいは社会的支援が十分に届いていない。
そんなアーサーに対し、次のような批判がしばしば見られた。いくら貧困のどん底にあり、悲惨な状況にあったとしても、彼は黒人や有色人種ではなく白人男性であり、また女性や性的マイノリティでもない、その点では本当の意味での犠牲者や被害者ではない……と。
現代は社会的な差別や不平等を是正することを求める政治的正しさ(PC、ポリティカル・コレクトネス)が重要視される時代である。だから、『ジョーカー』に対してそうした疑問や批判が寄せられるのも、当然のことだ。
とはいえ、義理の父親から脳を損傷するほどの虐待を受けたサバイバーで、周りから理解されにくい障害があり、認知症の母親を家族介護せねばならず、福祉と医療を打ち切られ、貧困状態にある中年男性に対して、彼が「男」であるという一点において、そのような批判や非難が投げつけられてしまうとは、どういうことなのだろう。
そこでは、苦境に置かれた男性の中の弱さ、脆弱(ぜいじゃく)性、社会的なコミュニケーションの中に入ってこられない声なき叫び声が、この世界に存在しないものとして、かき消されてしまっている。
そもそも、アーサーのような意味での弱者男性たちの鬱屈や困窮をうまく捉えられず、どこにも位置づけることができないということ、そこに現代社会の深刻な問題点があるのかもしれない。
それぞれの複雑な理由によって貧困、剥奪感、尊厳破壊などを背負わされた「弱者男性」たちの絶望と苦悶を的確に論じるための言葉や理論が、いまだに存在していないのではないか。