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ぼくらは戦うべき敵を間違えるべきではない
どんな暴力も許されない、と優等生のように言いたいのではない。そうではなく、ぼくらは戦うべき敵を間違えるべきではない、と言いたい。
映画の中のアーサーが本当に戦うべき敵と戦えていたのか。もちろん、そこには疑問も残る。確かにアーサーは社会的弱者に向けて鬱憤を晴らすようなマネはしなかった。
しかし承認欲求と家族幻想をこじらせて、有名人の中に「父」を求めたあげく、母親を殺害してしまったからだ。
では、誰かに承認され、愛され、癒されようとする前に、アーサーは何をなすべきだったのか。アーサーが弱者男性としての自分自身を愛するためには、どうすればよかったのか。
権力者や金持ち、社会構造とあくまでも戦い続けるべきだったのか。
すべてを諦め、自分の運命に忍耐し続けるべきだったのか。
それとも、責任があるのは国家・行政や資本・企業の側であり、彼には何の責任もなく、福祉国家や社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)を十分に機能させるべきだった、ということだろうか。
立ち止まって、そういうことについて考えてみたかった。