「校正者」が登場するドラマや小説が最近は増えている。机の前にじっと座ってページをめくる地味な作業。そればかりなのに、そう、ドラマティックな職業なのだ。
牟田都子さんは、今大人気のフリー校正者。その牟田さんによる傑作随筆『文にあたる』は「仕事エッセイ」且つ「読書エッセイ」で、仕事や読書に悩む人にうってつけの本だ。
校正者は「物知り」というわけではない、と牟田さんは言う。確かに専門書などでは執筆者の方が知識が上回ることが多いだろう。しかし、書いている本人はもやもやを抱えた文章でも違和感を覚えずにそのまま社会に出そうとする。立ち止まれるのは校正者で、疑問を投げ、調べる方法を模索し、選択肢を提示する。
校正者は、赤字で直す人ではない。鉛筆で選択肢を提示する人なのだ。正しい文章なんてものはこの世に存在しない。辞書はあるが、常に版を重ねて変化する。そもそも辞書は後付けであり、言葉は世の中の方にある。言葉は、自由だ。
牟田さんも書いているが、小説界隈は特に自由で、辞書とは違う漢字や文法を使っていても作家が信念を持っていればそのまま通せる。小説家の私は、実際、辞書に載っていない言葉を本に載せたことがある。そのとき「本当にこの言葉でいいですか?」と校正者が尋ねてくれるのはありがたい。きちんと考え、覚悟を決めて出したい。しかしながら、ひとりではなかなか立ち止まれないものだ。
校正者は、明らかなこちらのタイプミスの箇所でも「違う表記にしますか?」といった、「?」の書き込みをしてくれる場合が多い。校正者が「?」をたくさん付けてくれることで作者はいちいち立ち止まることができ、考えや覚悟を強くできる。たとえ校正者の指摘通りの直しを選択しない場合でも、強度の高い文章にできる。
私は自分の文章をひとりで読み直す際、「わかりきっている」という思い込みから、するりと通してしまうことがある。他人の文章でも、「この本にはこういうことが書いてあるはず」という先入観で読み進めてしまう。言葉は自由。だが、執筆も読書も自分の先入観に縛られる。
「校正の技術とは、突き詰めていくと思い込みや先入観をいかに排するかというところに収斂するのではないでしょうか。」と牟田さんは書いている。
それは、普段の読書でも同じではないか。ページをめくると、自分の思い込みが崩される。そこが面白くもある。生きるのだってそうだ。生きれば生きるほど、自分の先入観に気がついて恥入ることになり、調べたいことが増えていく。正解はどこにもないのに、いつまでも調べ続け、それでもわからず、ミスをして、恥を晒して社会に出る。先入観を排する冒険こそが人生。私たちはみんな「校正者」なのかもしれない。
むたさとこ/1977年、東京都生まれ。図書館員を経て出版社の校閲部に勤務。2018年より個人で書籍・雑誌の校正を行う。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』『本を贈る』。
やまざきナオコーラ/2004年「人のセックスを笑うな」で文藝賞を受賞しデビュー。17年『美しい距離』で島清恋愛文学賞を受賞。