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夜もふけた午前2時50分ごろ、大杉に馬乗りにまたがった市子は…

 大杉は日蔭茶屋を数年来の定宿としており、今回も6日夜、情婦である伊藤野枝を連れて来た。7日午前中は野枝とともに自動車で湘南地方見物に行ったが、午後4時になって東京から市子が訪ねてきた。大杉が婦人同伴と聞き、顔を曇らせて部屋に通ったが、それから1時間を経て、野枝は帰京すると言って宿を出た。しかし同9時ごろ、鎌倉から引き返してきたのは、大杉と市子の2人を残しておくことを憂慮したためか。その夜は3人、枕を並べて寝た。8日朝になって野枝はついに帰京。凶行の夜、大杉と市子は2階東隅八畳の間で寝に就いたが、就寝前、2人の間に争いが起こったようだった。

 夜もふけて午前2時50分ごろ、市子は便所から帰ってきて、隠し持った白さやの短刀で熟睡している大杉に馬乗りにまたがり、右頸部に深さ1寸1~2分(約3.3~3.6センチ)突き刺した。大杉は悲鳴をあげて起き上がり、市子を取り押さえようとしたので、市子はその場を逃げ出した。はしご段を飛び降り、廊下伝いに反対側の西方2階に駆け上ったが、行き止まりだったので、また廊下に引き返した。このとき、市子がまとっていた貸し浴衣は血潮にまみれ、凄惨さは言葉もないほどだった。大杉との距離はわずかに1間半(約2.7メートル)。大杉は右頸部の傷を右手で押さえ、左手で市子を取り押さえようとしたため、市子は「許してください」と叫びながら廊下伝いに湯殿に出て、そこから裏木戸を開いて駐在所に自首して出た。

 日蔭茶屋は、江戸時代に開かれた海辺の茶屋が前身で、明治後期からは海水浴の普及で旅館として繁盛した。1898(明治31)年の「風俗畫(画)報臨時増刊(江島鵠沼逗子金澤名所圖絵)」に「日蔭の茶屋を知らぬ者なし」と書かれるほどの有名リゾート地で、文人墨客が訪れることも多かった。東日の初報は刺された後の大杉の動きについても書いている。

日蔭(現在は日影)茶屋は事件後に改築された(「文藝春秋」より)

 市子の姿を見失った大杉は、急所の痛手に一時倒れたが、多量の出血にも屈せず起き上がって帳場まで行き、驚き騒ぐ女中に向かって「タバコを持ってきてくれ」と命じた。横たわりながら悠々と巻きタバコをふかす態度は到底深手を負った者とは思えなかった。宿の者が「困りますねえ」と言うと「すまんすまん」と答え、さらに他の者に向かって「女を早く探してきてくれ。海へでも入って死ぬといけない」と、自分の重傷を忘れて市子の身を気づかっていたという。市子が凶行に用いた白さやの短刀は東京から持ってきたもので、ハンカチを巻いてあったことから察するに、市子は大杉を殺害した後、自分も自殺するつもりだったようだが、大杉に追いかけられて目的を果たさず、自首したとみられる。大杉は山口検事以下臨検の係官の問いを「一言も聞いてくれるな」とはねつけ、何も答えなかった(9日、特派員葉山電話)。

「いずれこんなことになるのではないかと心配していたのですが」

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 東日は大杉の容体にも触れている。「大杉は午前4時ごろ、自動車で逗子・千葉病院に収容され、傷口6針を縫合された」「東京から駆け付けた野枝が付きっ切りで看護しているが、傷は気管に達しているため」「危険な状態にある」。別項の記事では妻(入籍はしていなかった)保子も付き添っていると書いているが、2人一緒でどんな状態だったのだろうか。