1ページ目から読む
7/7ページ目

「公娼、妾奉公と選ぶところがない」

 ほぼ同じ時期、「中央公論」6月号では、のちに東洋大学長を務める教育家、高島米峰が「新しい女の末路」と題して、「青鞜」の女性たちを「主義主張を投げうって見苦しい戦死を遂げた」と記述。

 野枝について「日本の国民道徳に対する一大反逆」とし、「野枝君は、辻君の妻としてあらむには、生活上の困難を切り抜け難きをおもんばかり、背に腹は代えられぬところより、比較的生活上の保証のありそうな大杉君、しかも妻あり情婦あるを知りながら、これに肉を与えたのはつまり、貧窮にしてかつ無知なる女が、身を売って公娼となり、妾奉公に出るというのとなんら選ぶところのないもの」とまで言い切った。

 極め付きは「実業之世界」を主宰するジャーナリスト野依秀一(のち秀市)が創刊した雑誌「女の世界」の同年6月号。当事者である大杉、市子、野枝の3人に文章を書かせている。スキャンダルを正面から取り上げ、毀誉褒貶相半ばした野依の面目躍如の企画だろう。

ADVERTISEMENT

 そこで大杉は「一情婦に與へて女房に對する亭主の心情を語る文」として、「野枝さん」と呼び掛ける形で、保子と市子を自分たちの恋の「犠牲者」としつつ「自由恋愛」の正しさを強調した。

 市子は「三つの事だけ」のタイトルで「少し静かに凝視していたい」と心の揺れと迷いを述べた。野枝は「申譯(訳)丈(だ)けに」だが、ほぼ大杉との関係の経過説明に留まっている。

 事件から約半年前の1916年5~6月に「大杉栄と3人の女」のスキャンダルは一般に知られることとなり、彼と彼女らにさまざまな圧力をかけ続けていたと考えられる。