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 一方、伊藤野枝の経歴は事件から約半年前の1916年5月4日発行5日付萬朝報夕刊の連載記事「新婦人問題(3)」にある。

「福岡県糸島郡今宿村(現福岡市)の漁村に生まれて、幼時早く両親の手を離れ、10歳になるまで小学校を8つも変えたというをみても、いかに叔父や伯母の手から手を渡ってあるいたかが分かる」

「しかし、生まれつきよい頭を持っていることをある女教師に見いだされて」

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「叔父から学費の仕送りを受けて、いとこと一緒に東京に出ることになった。東京に出るとすぐ上野高等女学校(現上野学園高校)に入学した」

 そこで英語教師をしていたのが辻潤だった。帰省中、叔父に地元の男と結婚させられたが、飛び出して東京に戻り、辻のもとへ走った。その後、野枝は辻の影響もあって、平塚らいてう(本名・明子)が主宰する「青鞜社」の社員になった。

伊藤野枝(大澤正道「大杉栄研究」より)

「青鞜社」については「日本近現代史辞典」に記載がある。

「女流文学の発達をはかり、自己の解放を企図して東京・本郷に組織された進歩的婦人グループ」

「1911(明治44)年9月1日、機関誌『青鞜』を創刊。発刊に際しての平塚の『元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である』『私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さなければならぬ』という女性宣言は有名である」

 野枝は「青鞜」誌上で論陣を張り、1914年11月号以降、同誌の編集発行人をらいてうから引き継いだが、資金難から事件の約半年前に休刊した。

 市子は女子英学塾の学生時代に「青鞜」を知り、らいてうに入会の申込書を送った。「青鞜」には小説などを寄稿したが、青鞜社の社員であることが津田梅子・女子英学塾校長に知られ、退学させられそうになった。一時、教師として青森県弘前の女学校に出たのもそのため。「青鞜」が、当時の地位も名誉もある女性層に毛嫌いされていたことが分かる。野枝と市子は「青鞜」の旗の下に集まった同志で、ともに「新しい女」と呼ばれた女性だった。

「3条件を守れば四角関係は成立する」

 各紙がスキャンダラスな報道に走る中で、読売の初報(11月10日付朝刊)は「兇行の原因」の中見出しで「今回凶行の原因ともみるべき被害者大杉栄氏を中心とする『自由恋愛』は昨年12月から起これるもの」と書いている。